鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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白/天正十六戊子/霜月吉日孝子藤原家均/井後室宗雪/本願次郎左衛門尉jとあり,本像の像主が後藤貴明で,天正16年(1588)に仏師感定軒によって制作され当初は芦原村の光明寺に安置されていたこと,さらに造像の願主が像主の実子である藤原家均,貴明の後室(家均の母)宗雪,次郎左衛門尉であることがわかる。いっぽう体内銘は「彼御影本願/次良左衛門蒙/御夢想之告/造立之所也jと読め,この像が背面銘にも本願と記される次郎左衛門が夢のお告げによって造像したことがわかる。生まれ,後に現在の佐賀県武雄市を中心に勢力のあった後藤氏の養子となった。その人生の大半は近隣大名との抗争に明け暮れ,生家である大村氏やこれと連合する有馬氏などと戦い一時有力な戦国大名として勢力を伸ばすが,後に養子の惟明に背かれてやむなく竜造寺氏を頼り,晩年は竜造寺隆信の子を養子に迎えてその傘下に降ったという。没年は天正11年(1583)で,享年は50歳である。本像は像主が没して5年の後に制作され,像の願主は子供と妻である。造像の目的は家均が孝子と名乗っているように一応は実父に対する孝行であったことがわかる。しかし家均はこのとき既に竜造寺隆信の三男の養子に出されており,後藤家は事実上竜造寺家に吸収された格好になっている。ここで特筆されることは造像に至る経緯であり,次郎左衛門がみた夢がきっかけとなっている点である。次郎左衛門については不明だが,貴明の妻子と名を連ねていることからおそらく後藤貴明の家臣ではないかと推測される。銘記には夢の内容は具体的に記されてはいないが,本像は残された遺族や家臣が不遇な晩年を過ごした像主の冥福を祈り,あわせて像主の無念を代弁し,これを昇華するために夢にかこつけて造像したとも考えられよう。本像の作者感定軒については他に作例が知られないが,r北肥戦誌』には博多の仏師と記される。像の作風は頭部のみキリ材で制作している点が注目されるが,能面にしばしばキリ材が使用されることを考えると,作者は面部の表現についてより繊細な効果をねらった可能性が考えられる。像高91.5センチ,玉眼,彩色。着物に羽織を纏い両手を膝前に置き正面を向いて胡坐座に坐る武士の像である。材質はヒノキ材で構造は表面彩色と像底板のため詳し像主後藤貴明(1534~1583)は肥前の戦国大名である(注5)。大村純前の子として(2)木造大野忠右衛門像福岡・金龍寺蔵〔図2J 378-

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