く確認できないが,現状での観察では頭体別材で頭部挿首,体幹部は前後三材で,このうち背面材を縦三材として両肩,膝前などを寄せているようである。腹前に羽織の結ぴ紐をあらわすがこれは別材で釘留めする。また雷も別材である。彩色は木地に布張りした上に胡粉着色しており,肉身部は肌色,髪や眉は墨であらわす。衣は下から白,朱,外側に柿色に塗りわけ,帯は群青に白の小紋,羽織を黒に塗りこれに白で家紋を描く。像そのものに銘文は見出せないが,像とともに本像の由緒を記した銘板(42.OX43. 0 センチ)が寺に伝来している。銘板はケヤキ材製で陰刻銘が刻まれている。銘は「村上天皇廿八代之苗商村上右衛門/太輔通康五代之末葉大野中右衛門/尉貞勝五十八歳之書像也Jr六十二歳元禄十六発未暦四月廿三日/喪於一女子為彼菩提金龍精舎立於五/間四面之堂宇安置於行基菩薩之制作/観世音尊像而其悌龍之中納於|ム女松月/院殿緑雲貞樹大姉之法競資冥福且寄/附於修復之資料令僧侶長禅謂至於後/代有思此堂無廃壊耳失/官賓永二乙酉年夏四月廿三日」と読め,本像の像主は大野忠右衛門貞勝で58歳の時の寿像であることがわかる。また,元禄16年(1703)4月23日に62歳で亡くなった一族の女性の菩提を弔うため2周忌にあたる宝永2年(1706)に金龍寺に堂宇を寄進し,これに行基作の観音像を安置しその体内に法号を納めたこともわかる。大野忠右衛門は筑前福岡藩の藩士である。金龍寺の過去帳によれば正徳4年(1714)に没したことがわかるが,その他の記録によれば四代藩主黒田綱政に仕え,糟屋郡奈多浜の塩田開発を成功させたことが知られる(注6)。大野家の家禄は一千石であったが,福岡藩においてはまず上級クラスの武士であった。本像の作風は張り詰めたような全体の量感に特徴がある。顔のふくらみや,でっぷりとした腹の奥行きはいかにも藩の重役らしく堂々とした風格をあらわしており,像主の特徴を的確にとらえているようである〔図3J。制作にあたった仏師が不明なのは残念だが,作風的には近世の肖像彫刻として優れた作風を示す,京都・千光寺の「角倉了以像J(注7)に共通するものがあり,あるいは京都などで制作された可能性が考えられる。本像が制作された経緯についてはいまひとつ明らかではないが,家族の菩提を弔うために一宇の堂を寄進したことが直接的な契機となったことは銘板の内容から明らかで,檀越としての肖像の範轄に入れることができるだろっ。ただし,本像の施主についてはさらに詳しい検討が必要と思われ,例えば像主の子供である可能性も十分に考
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