えられよう。ところで本像の姿が格式ばった衣冠束帯や持姿ではなく,万も持たないくつろいだ姿であることは武士のそれまでの肖像彫刻とは異なる表現として注目され,このことはより私的な方向へ肖像彫刻をめぐる意識の転換が進んだことを思わせる。像高86.3センチ。実際の衣を着せることを前提に制作された男性の裸形俗人像〔図5 Jで,口を少し聞き歯をみせて正面を向き正座して右手に扇子,左手は膝上に置く。材質はキリ材。構造は上半身の根幹部と正座をする腰以下の下半身を別材で制作し,腰の部分で各々を相欠き状に接合し,接合部の両側カミら二本ずつ角柄を打ち込んで固定している。両腕は体幹部とは別材で肩と手首の部分で矧ぐが,両肘の関節は角柄で接合しており着脱可能である。内割りは像底から浅く施される。面部を割り放して玉眼および歯列を最入する。頭髪および眉毛,捷毛を人毛で植付け,肢と股聞には惨で毛を貼り付ける。なお,下腹の膨らみの一部を紙のようなものを張子状に盛り上げて補っている。また性器は現在無いが,取り付けられていた痕跡が認められる。彩色は胡粉下地とし,各部を肉身色に塗る。ただし,足の部分のみ白色に塗り,足袋を履いている状態をあらわす。着衣はいずれも木綿で,小紋染めの肌着と濃茶色の着物に袴を着け,これに帯を絞めて羽織を纏う。像に付属するものとしては左手に握る扇子のほか,鉄製煙管,磁器の灰入れ,I善行之者jと墨書した木札(49.8X18.0センチ),および作者によると思われる木製の銘札(17.5x 12. 4センチ)が伝えられる。銘札には墨書で「永島三之丞良節之像/筑前博多西町下住/行年二七歳/衣笠右兵衛景光/造之/蕊時嘉永二年/己酉四月/万料金六両jと記される。これにより,本像の像主は永島三之丞良節という人物で,嘉永2年(1849)4月に博多西町下に住む27歳の衣笠右兵衛景光が金六両で制作したことがわかる。衣笠右兵衛については現在他に知られるところがなくその素性は不明である。ただ,上記のような本像の構造から作者は正統的な仏師でないことは明らかで,いわゆる細工師と称される者ではなかったかと思われる。本像の彫刻としての表現はいわゆる幕末に見世物として流行した生き人形の系統に属するもので,その目的とするところは現実の人間の外見的形状をありのまま写すことにある。(3)木造永島良節像福岡・隣船寺蔵〔図4J
元のページ ../index.html#390