鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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像主永島良節については本像が伝来した宗像地方の偉人伝『宗像遺徳集.1(注8)に,永島良節墓碑銘をもとにした伝記が収録されている。これによると,永島良節は宗像神湊の丸二屋と称する商家の主人で,性格は温厚篤実にして家業に励むかたわら村内の窮民に衣食を与えるなど善行の誉れ高く,ついには官庁から褒章および「善行之者」と書いた札を下され,藩主参勤などの折にはこれを立てて送迎をおこなったという。また神仏を敬い,暇のある時は田畑を開拓し,時には趣味として今様を歌うことをもって楽しみとしていたとある。没年は安政5年(1858)で,享年は56歳であった。いっぽう『宗像遺徳集』には永島良節の子供である永島良直伝も掲載され,これには本像について興味深い事実が記される。永島良直は丸二屋を継ぎ家業はいよいよ栄え,窮民に対する憐↑関の情は親以上であったという。また孝行の志高く,いかにして孝養を尽くすかを考えた末,父良節が50歳の折に仏工を雇いその寿像を作らせた(永島良節の没年から本像が制作された嘉永2年は像主47歳にあたり,伝記の内容とはいささか食い違う)。父没後はその像に仕えること生きているが如しで,前述の表彰の木札を立て,季節毎に衣服を替え,毎朝膳部を供えて生前好んだものはこれを薦め,朝夕読経と写経を積年怠らなかった。永島良直は明治2年に没し,享年は44歳であった。以上から本像は像主の子供によって造像され,像をめぐって特異な営みがあったことが知られた。造像の目的は孝行であり,これを実践するため例えば着衣の交換に便利なように管が着脱可能で、あるなど,像は使われることを前提にした仕様になっていた。造形の面でも本像が正座をして扇子を持ち,何かを話すかのように口を開けていることは像主の趣味が今様であったことと関係していると思われる。本像は近世俗人肖像彫刻のひとつのあり方を示すと同時に様々な肖像彫刻の問題点を投げかけているように思われる。像高27.0センチ。正座の姿勢で着物に羽織を纏い,正面を向き肩を丸めて坐る老人の像である。両手は何かを持つように膝の上に置く。材質は不明だが芯を含む広葉樹の材を用いている。構造は頭体別材で,頭部は面部を浅く割り放して玉眼醍入,挿首とし,体幹部はー材から彫出して膝前と両袖材を寄せる。手首先を別材で作り袖に挿し込む。像底から内割りをおこない前部の左右二箇所と背面を割り残す。像背の丸みは円材の外側の丸みを利用したものである。彩色は胡粉下地とし,肉身部は肌色で(4)木造黄玄朴像熊本・個人蔵〔図6J-381-

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