鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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護につとめたため,慶~1年(1865)福岡藩の弾圧により姫島に流されたが高杉晋作の手配で脱出に成功し,慶~3年(1867)山口の三田尻で没した。享年62歳。に作者は福岡の仏師高田又四郎であることがわかる。野村望東尼は幕末に活動した歌人,勤皇家である(注10)。筑前福岡藩土の三女に生まれ,17歳で結婚するが半年で離婚。24歳で再婚して夫とともに歌人大隈言道に師事し,数々の秀歌を残した。夫の没後は剃髪して招月望東禅尼と称し,勤皇の志土の擁作者高田又四郎は福岡における彫刻の近世と近代の橋渡し的な仕事をした仏師である(注11)。弘化4年(1847)に生まれ,最初福岡藩の御用仏師であった佐田文蔵慶尚に彫技を学び,一時これを継いだともいわれるが数年で去り,京都に出て吉村宗雲のもとで修行した後再び博多で仏師を開業。以後,東京上野でおこなわれた第2囲内国勧業博覧会への出品,博多大仏の雛型制作など,明治期の福岡を代表する仏師として活躍した。福岡出身で近代彫刻の大家の山崎朝雲も最初は高田又四郎に入門している。本像は制作年が不明であり,寿像であるか遣像であるかは不明である。ただ,像容が野村望東尼のよく知られた写真と共通することや,銘文に「福岡市」と記すことから像主没後の明治期に入ってからの制作であろう。施主「今紫jについては不明である。ただし,本像は像主が生前交際のあった太宰府の医師陶山一貫の子孫の家に伝来したことから,追慕のために像主と親しい関係にあった人々によって制作された可能性はある。本像の表現は一見してわかる生硬さがあり,おそらく写真をもとに制作したものであろう。像主の容貌も極めて一般化されて整えられたもので,人形的と言ってよいかもしれない〔図9J。ただ像の出来そのものは非常に丁寧で像が坐る座布団も微妙なふくらみをつけるなど極めて細かいところまで神経が行き届いている。本像はおそらく近代に入つての制作と思われるが,高田又四郎が作風において彫刻家ではなく仏師のあり方に重みを置いていたことを窺わせこうした近世的肖像彫刻の作例としては最後に位置するものであろう。以上5件の作例を報告したが,これらはいずれにおいても像主の社会的地位,制作の動機や作者の属性などを異にしていて,必ずしも同じ方向性をもつものではなかった。しかし永島良節像にみられたように像とこれを作らせた施主との関係は想像以上に濃厚なものがあり,近世の肖像彫刻には極めて私的な性格を帯びたものがあるこ-383-

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