。。口円J建設が1580年代以降,再び活発になっている。ヴァラッロでの造営再開と北イタリア各地での相次ぐサクロ・モンテ着工は時期を同じくしていたのである。山上に複数の礼拝堂を点在させ,その中に彫像と壁画によって聖なる物語を表す「サクロ・モンテ」という表現形式が16世紀末に注目されるようになったのは,ヴァラッロのサクロ・モンテ成立の宗教上の要請が当時の北イタリアの宗教環境で求められていたものと一致していたからであった。ヴァラッロのサクロ・モンテは,フランシスコ会修道士ベルナルデイーノ・カイーミが「エルサレム巡礼に赴けない人々のためにjナザレやベツレヘム,エルサレムの聖跡をヴァラッロの山頂の土地に再現した,いわば代替巡礼地であった。礼拝堂は聖地に実在する聖堂を模し,実際の聖跡の地理的な形状や聖跡同士の位置関係を忠実になぞって山上に配された。更に,その内部に真に迫った彫像と絵画で「キリストの生涯jのエピソードが表されることで,礼拝堂は信者を「キリストの生涯」に対する黙想へと誘う場となった。このような初期構想は,心の中で聖地巡礼を想像する内的巡礼や,キリストの生涯を自らその場にいたかのように心に思い描く黙想という中世以来の宗教上の実践と結びついていた(注4)。黙想は,中世以来の信仰の伝統への回帰による個々の信者の道徳的刷新と精神生活を目的として15世紀後半に北イタリアで起こった「カトリック改革」の中でも重視された(注5)0 16世紀後半になると,ミラノ大司教カルロ・ボッロメーオがカトリック改革の先導者となる。彼はキリストの受難に対して「特別な信心」を抱き,自らもヴァラッロのサクロ・モンテに巡礼し,礼拝堂の前で黙想を行っていたという(注6)。カルロは黙想を彼個人の私的な信心に留めておかなかった。例えば,ミラノの広場や四つ辻に十字架を先端に付けた円柱を建立させ,その前で毎晩,黙想を行う「十字架の同心会」を設立させている。日々の生活空間である都市をも黙想の場に変えることで,歩くという身体感覚を通して信者を黙想に導こうとしたのである(注7)。このような宗教風土の中,ヴァラッロのサクロ・モンテは,信者の心身に深く働きかけることで彼らを黙想に誘う崇敬装置として脚光を浴びることになり,カルロ自身の指導の下,礼拝堂配置の見直しが図られた。彼の没後は,ノヴァーラ司教パスカベー(在位1593-1615)が内部装飾の図像や構成を指示するなど積極的にサクロ・モンテ再編に関与することとなる。O
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