鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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⑧ 明治・大正期における写生旅行研究研究者:郡山市立美術館学芸員はじめに近代日本の絵画史研究の場において,画家の経歴について述べる際,写生旅行と作品とがしばしば取り上げられる。旅とは基本的に,個人的な意味合いの強い行動であるから,それがひとりの画家の活動の一部として考察されるのは当然であろう。だが,画家の写生旅行を個々に捉えるのではなく,広く日本の近代絵画史および社会史に照らし合わせることによって,とりわけ,近代以降の自然主義的風景画や日本人の自然観について新たな一面が加えられると思われる。ゆえに本研究は,画家の写生旅行に着目し,総合的に調査することを目的とするものである。今回はその第一段階として,画家の写生旅行,そこに派生する主な作品,雑誌等に掲載された紀行文を年代順に追って概観することを試みた。扱う対象は,明治,大正期とし,集積した情報データを紙面の都合上その一部を簡略化し別表にまとめている。現代に通じる旅の出現は,江戸後期に遡る。街道の整備によって旅が一気に大衆化されると,各地の「名所」が広く知られるようになった。それに呼応するように旅行記や地図が相次いで刊行され,名所絵が数多く生まれた。天保5年に出された広重の保永堂版『東海道五十三次』の人気に文政13年の空前の「おかげ参りJブームの余波が及んでいたように,旅と「名所絵」は深く結びついていたのである。日本で油彩画の先駆的な役割を果たした高橋由一(1828-1894)が,ウィーン万国博覧会(明治6年)にく富岳図〉を出品するため,東海道から京都,紀伊方面へと写生旅行に出かけたのは,明治5年のことである。その5年後の明治10年,短い生涯ながらも類い稀な才能を開花させた亀井竹二郎(1857頃-1879)は,賂川式胤から旧東海道の宿場を描き留めることを命じられて京都を出発し,石版『懐古東海道五十三騨異景Jの油彩原画を制作した(注1)。明治17年には,三島通庸の委嘱により,高橋由ーが三ヵ月以上かけて栃木,福島,山形にまたがる新道の土地を写生して歩く。このように,日本の油彩画の禁明期における写生旅行は,記録的な性格が強いと言えるだろう。しかしながら,広重と同じように道中写生をした亀井の東海道景には,名所絵的な要素1 明治10年代から20年代永山多貴子-402-

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