よりもむしろ,雲,波,木々の描写に心を砕く,画家の自然主義的な姿勢を読み取ることができる。由ーが新道写生のために塩原を出発した頃,小山正太郎(1857-1916) ,浅井忠(1856-1907)らが,同じ栃木県の日光の山地を写生旅行していたことは,じつに興味深い。工部美術学校時代の師,アントニオ・フォンタネージ(1818-1882)に「天然を師として勉強せよ」と説かれた彼らは,それを実践すべく明治12年頃からしばしば近郊へと写生旅行に出かけている。重要なのは,彼らの写生旅行が,自然の中に美しい風景を見出すという,新たな認識に基づいていたことである。小山正太郎はのちに私塾不同舎を開設し,多くの画家を輩出した。門人のひとり石川寅治(1875-1964)の回想によれば,明治24年頃の不同舎では,春と秋には天気さえよければ,塾生たちは明け方に戸外写生へ出かけたということである。以下に当時の様子を引用してみよう。服装は勿論貧乏書生に今のやうに洋服など着られるものでなく,和服に袴,脚粋に草履で,三脚を腰に差し画嚢を背に負ひ,握飯を弁当として腰に下げた。写生の目的地は,主として,綾瀬,小松川,曳船,千住,根岸田圃などで,とくに板橋の方に出かけたこともある。根岸田圃にはよく行ったもので,根岸から千住荒川まで青々とした田圃を見渡せた頃だ。乗物などは勿論なく,歩いて目的地に着くとほのぼのと夜が放れるといふ風であった。そして一日中写生して灯火のつく頃に帰って来る(注2)。河合新蔵(1867-1936)は,明治25年11月上旬の不同舎の写生旅行について,こう振り返る。吾等三拾余名が先生に引率せられ中央線八王子駅に下車五日市町より日向和田を経て青梅町に出で,この沿線より散開して各自にスケッチをしながら征く(中略)それから多摩川に沿うて沢井に行き,小丹波に一泊,夜は其日のスケッチ(鉛筆画)を各自燈のもとに修正し之を一室に陳列して先生の好評を受け,これで一日の仕事が終り,後は自由に高歌放吟するのである(注3)。不同舎が,戸外スケッチや写生旅行に対してどれほど熱心であったかが窺える。「画-403
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