鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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学紙を三つに切って大きくーパイに風景写生をするので,道路,山水が最も喜ばれた」という彼らのスケッチは,I道路山水jとまで呼ばれていた(注4)。こうした経験を積んだ中川八郎(1877-1922) ,吉田博(1876-1950),石川寅治,満谷国四郎(1874-1936)ら,続いて明治30年代に不同舎の門人となる小杉未醒(1881-1964) ,森田恒友(18811933) ,坂本繁次郎(1882-1969)らが,後に写生旅行を頻繁に行うようになるのは,ごく自然ななりゆきであった。2 水彩画熱と写生旅行明治20年代にイギリス人画家サー・アルフレッド・イースト(1849-1913),ジョン・ヴァーレー・ジュニア(1850-1933),アルフレッド・ウィリアム・パーソンズ(1847-1920)が相次いで来日し,日本の水彩画の興隆に極めて大きな影響を与えたことは,繰り返し論じられている。彼らは日本各地へと赴き,名所旧跡に取材した際にも,天候や土地の雰囲気を伝える作品を描いた。明治24年には芝の慈恵病院においてヴァーレーの油彩水彩画展が,翌年には東京美術学校においてパーソンズ、の水彩画展が開催される。これらの展覧会は,三宅克己(1874-1954)をはじめとする水彩画家を誕生させるきっかけとなった。ところで,パーソンズが明治25年の3月から12月までの滞在期間に,奈良や東海道沿線の各地を訪れた際の記録が,後に『みづゑJ誌上に数回に渡って掲載された(注然についての詳細な観察が随所に折り込まれている。『みづゑJの創刊者大下藤次郎(1870-1911)は,日本における水彩画家の第一人者で、あり,生涯を通じて写生旅行を行なった人物であった。大下が,明治38年の『みづゑ』の創刊号にパーソンズの紀行文を取り上げたのも,大下自身,パーソンズが示した旅の視点に深い関心を寄せていたからこそであろう。『みづゑJには,写真製版や石版などによって印刷された水彩画の口絵とともに,大下をはじめとする水彩画家たちの写生旅行紀が,ほとんど毎号のように掲載された。『みづゑ』が,水彩画ブームの高まりとともに,旅先で水彩画を描く風潮にも大きな影響を及ぼしたことは十分に考えられる。旅行の前日三日前を訪ふて旅行に必要なる鞄,化粧道具箱,薬ケース,バスケット,靴,ステッキ,ゲートル,5 )。そこには,旅の様子に加えて,パーソンズが行く先々で眼にした日本の植物や自404

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