行Jと題した記事を『みづゑJに掲載するのが明治42年,明治44年には『美術新報Jに8月,9月と連続して「夏期写生旅行Jの特集が組まれ,南薫造ら18人の画家が寄住所姓名印年齢要塞地帯内の写生が禁じられていたために,画家たちが写生旅行をする際には注意が必要であった問題は別にして,この記事からは,各地に赴いて写生をするという行動が,当時の幅広い層にすでに及んでいたことが読み取れる。また,明治38年の10月には,黒田清輝,久米桂一郎,和田英作(1874-1959),岡田三郎助(1869-1939),寺崎広業(1866-1919)らそうそうたる教師陣の引率で,東京美術学校の生徒約200名が伊香保から榛名山,妙義山を巡る修学旅行に出かけている。現段階で結論付けることは避けたいが,写生旅行は,明治30年代後半には画家たちの聞ですでに一般化していたと思われるのである。時暑に入りて,人は涼を追へり。事に美術に従ふの士,都門を辞すして遠く山川に放浪する者幾干ぞ(注8)。明治39年8月5日発行の『美術新報』の記事にこうあるように,画家の写生旅行は,夏期に行なわれることが多かったようである。丸山晩霞(1867-1942)が「夏の写生旅稿している。夏の写生旅行が盛んに行なわれた背景には,人々の間で避暑旅行が定着しつつあったことも考えられるだろう。だが,夏に限らず,画家の旅が必ずしも写生旅行につながるとは言い切れない(注9)。このことは,写生旅行の意味づけにも関わる問題でありながら,調査上その判断が容易につかないケースが少なくなかった。現時点のデータには「写生旅行jであることが明確で、ないものも含まれており,これらの扱いについては今後の調査の課題としなければならない。ここでは,そのひとつの指針となりうる見解を,上記した「夏期写生旅行感想jの中から引用しておく。「興味の充実から出立j森田恒友旅行といふことは,全く興味の充実から出立しなければならぬ様に自分は思て居る,仮に明日から旅装を調へて,幾日かを夏の自然に親しまうと思ひ立った時,先づ今度の旅行は画を作ることを主な目的とするか,行く先々の風光に憧れて,画嚢を披東京湾要塞司令官多国保房宛(注7)406-
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