彼らが変化に富んだ地勢や幽境の発見に喜びを感じ,同時に俗化されていない土地を大いに求めていたことがわかる。じつは,写生旅行に出かける画家たちの多くが,人々,とくに都会人に荒らされていない場所を好んで選ぶ傾向があり,それは彼らの著した紀行文や写生地案内にも反映している。秋谷辺りから長井あたりは,人気もよく宿料も高くない。そして都人士はあまり来ていなゐ。(大下藤次郎「写生地案内Jrみづゑj78号)井の頭池も,無理解の土地士に踏み荒らされて,年々に俗地と化し去ることを思ふと,一面知何にも頼母敷く無いやうにも思はれます。静かな水を好む私は,東京の郊外到る所に,その幽境を探りましたが,追々にその影の消えて行くのは,淘に心細い限りと申さねばなりません。(三宅克己「通運丸の汽笛Jr中央美術j7巻-8号)大正4年には,日本アルプス登山者や上高地の遊覧者の大多数を画家が占め,山岳を主題とした展覧会出品作が増えるとまで予想される状況を招いた(注12)。これは,鉄道・道路建設や,リゾート開発に伴う森林伐採などが急速に進み,各地で名勝保護運動の気運が高まりつつあった時期とちょうど重なる。山を愛し,幾度も写生旅行を行なった吉田博は,1景色は見方によるものであって非常に名のある景色でも我々が見て薩張り面白くないところがあり,少しも世間に聞えてゐないところでも,大変面白いところがある。そして出来ることなら,昔から有名な景色を保護すると同時に,さう云ふ名のない勝地をも保護したい」と述べる(注13)0 r名勝を選択すると云ふ事が既に美術的観賞の領域に属するjようになった時,それを推進してきた画家たちが,今度は自ら景観の保護を訴えはじめるのである(注14)。おわりに以上明治・大正期の写生旅行について断片的に述べてみたが,洋画家以外の画家たちの写生旅行や,写生旅行地,個々の作品に関することなど,考察すべき多くの点は,調査を継続しつつ,後考に期したい。別表にまとめたデータは草稿にすぎないが,これを整理し,充実させることも今後の大きな課題である。408
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