A佳にd2.維摩図の先行作例9) [図2),全身像だけでなく,中国では現存作例の確認されていない半身像の維摩維摩は釈迦の在世時に在家にして悟りを聞き,その鋭い弁舌で並み居る仏弟子を論破し,諸仏の智慧を象徴する文殊菩薩と対等に問答したと伝えられる。インドでの造像は確認されていないが,中国の知識階級において盛んに信仰を集め絵画化された(注7)。日本においては鎌倉時代以降に南宋・元時代の維摩図がもたらされたと考えられるが,現存作例をみると,その様相は林の上で脇息にもたれて坐し,長い顎髭を蓄えた老人で,頭巾を被り,払子を手に携えた姿で描かれる(注8)。それらの将来画像を経て,日本においても単身の維摩図が制作されるようになったようであるが(注図も描かれた。よく知られている作品に文清筆「維摩居士図J(大和文華館蔵)がある。本図は長禄元年(1457)の年記のある賛文から「駿河の太守,荒川詮氏が越中に隠居して没した後,その子の善済が遺言によってその屋敷を仏寺とし,室内にこの像を掲げて詮氏の姿に擬したjものだとわかり(注10),俗人の肖像を維摩に見立てているといわれている(注11)。脇息にもたれ払子を手に執るという伝統には従いながらも,これが半身像として描かれていること,そして真に迫った顔貌表現がそれまでの維摩像の系譜から一歩抜け出たものといえる。文清筆本が肖像画である故に個性的な維摩の姿になっているという事例が,光琳の維摩も個性的であるから肖像画(自画像)だという説の傍証となっているのかもしれない。そして維摩図は雪舟およびその周辺の画家によって盛んに制作された。それには全身像と半身像の二つの形式がある。旧香積寺(山口)所蔵で雪舟の作と伝えられる「維摩居士図J(個人蔵)では,雪舟風の山水画の扉風の前に脇息にもたれて坐す維摩が全身像で描かれる。本図が伝来した香積寺は,その寺号からも明らかなように(注12)維摩と関連の深い寺で,この寺の本尊として描かれたものともいわれている(注13)。全身像で描かれる雪舟系の維摩はこの作例のように山水の扉風を背景とすることが多いようである。また等春筆「維摩居士図J(梅沢記念館蔵)では,半身の維摩をず、っしりとした量感のある姿で描いている。手は衣の袖の中に隠され,払子などの持物は執らず,脇息も描き込まれていない(注14)。雪舟及びその周辺の画家たちによって,ヴァリエーション豊かに維摩図が制作され(注15),半身像の維摩図が定着するに至ったものかと推測できる。
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