鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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A吐ウi之jと記された長頭短身の寿老図が現存し,光琳が雪舟作品を模写していたことがわ冒頭で提起したように,維摩における皮肉とはどのようなものなのだろうか。維摩が在家信者の身分でありながら,並み居る仏弟子や菩薩たちを論破してしまうという点は,厳しい仏教修行をしている者にとって確かに皮肉な存在なのかもしれない。遡れば,絵画・彫刻とも維摩と文殊が問答する問疾品の場面が表されることが殆どで,維摩は口唇を聞いていることが多い。しかしながら維摩が単独像として描かれるようになってから,特に日本において雪舟による絵画化を経て(多少の例外はあるが)維摩は口唇を閉じて表されることが多くなる。これは問疾品の場面を表しているのではなく,入不二法門品における維摩のー黙を,あるいは経典を離れて維摩という人物像そのものを表しているように思われる。人物像そのものが皮肉な存在であるならば,光琳の維摩だけが皮肉なのではないことになる。それでも光琳の維摩が他の作例と大きく印象を異にする理由は何か。光琳の維摩の最大の特徴は,顔の向き鼻先の方向と,視線の行方一瞳の位置が同じではないことにある。南宋・元時代の絵画はもちろん,雪舟系の維摩図にも,多種多様に絵画制作を行っていた探幽や常信の維摩図にもこのような特徴を持つ維摩は現段階では一つも確認できない。光琳は雪舟の絵を積極的に模写していたことが文献から明らかで(注22),実際に「四明天童第一座雪舟園かる(注23)。維摩についても雪舟及びその周辺の画家による作品を光琳が見る機会があったとしてもおかしくない。また狩野派についても光琳が探幽などの絵画を学習し,自らの作画に活かしていたことが既に指摘されている(注24)。探幽や常信によって維摩図が盛んに制作されていたことは先に述べたとおりであり,光琳が狩野派の維摩図を知らなかったとは考えにくいのではなかろうか。ここで光琳は雪舟や狩野派による維摩図の先行作例を知っていながら,それらとは違った維摩図を描いた,と仮定しよう。すると,顔の向きと視線の行方が一致しないということから,どのようなことが想定できるのか。これは本来視線を向けるべき対象から目をそらしてはぐらかすというよりも,意識的に横にあるものを注視しているように思われる。ここで思い起こされるのが,達磨の図様である。単身像で描かれる達磨には,顔の向きと視線の行方が一致しない図様が多く見受けられる。達磨の場合,壁に向かい坐禅している最中に,恵可の方を見遣る,という横目で脱む必然性がある。牧松筆「達磨図J(慈照院蔵)C図6J (注25)などの例を見ると,口をへの字に結び,視棋を横に向けるという顔貌の特徴だけでなく,筆の勢いは異なるものの,肩の輪郭

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