注(1) 山根有三「光琳の画風展開についてJr琳派絵画全集光琳派-j日本経済新聞(2) 青陵「尾形光琳筆維摩居士図Jr国華j221 国華社,1908年(3) 鈴木進「光琳試論Jr仏教芸術j14 毎日新聞社,1951年(4) 飯島勇「光琳の水墨画く維摩図への道>J rMuseumj 32 ミュージアム出版,1953 (5) 千沢禎治『日本の美術53光琳』至文堂,1970年,P.76 と襟元の衣紋線を濃墨で描く,という点もそのまま光琳の維摩に見られる特徴である。もちろん,光琳の維摩は実は達磨だという意味ではなく,光琳が維摩を描くに際して達磨の視線や豪放な趣の衣紋線を参考にし,転用した可能性を指摘したい。おわりに光琳筆「維摩図」について小林忠氏は,確かで強い禅画の伝統が志向されているとい精神を内向凝縮させて禅的な趣致に迫ろうとする姿勢がみられる,と述べている(注26)。画面の持つ印象としては筆者もほぼ同感であるが,さらに「維摩図Jの画風においては,緊張感と親しみやすさの絶妙なバランスがこの絵の興趣を支えているように思われる。最後に維摩と達磨という接点は光琳に限られるものなのだろうか。光琳よりやや時代の遅れる,白隠慧鶴(1685-1768)の達磨に,光琳の維摩と同じように視線を右横に向ける図様のものがある(注27)。達磨を数多く描いたことで知られる白隠ならではの表現で,この場合,維摩の型を用いて達磨を描いていると言えよう。このように自由な作画が可能であった光琳や白隠の状況と,近世という時代的な好みとが相侯って,尊像の種類・型にこだわらない,あるいはわざと無視した表現が成り立ち得たものと考える。なお光琳の水墨人物画について考えるには寿老や布袋など他の道釈人物の画題についても詳細に検討する必要があるが,本稿では維摩図の図様の変遷を確認することを基礎的作業としたため,光琳の水墨人物画における維摩の位置を明らかにするなどの総合的な検討にまでは至らなかった。今後の課題としたい。杜,1979年(r山根有三著作集三光琳研究-j中央公論美術出版,1995年)山根氏は制作時期を正徳3年(1713)頃と推定している。脇本十九郎「光琳筆維摩図Jr美術研究j37 美術研究所,1935年年418
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