鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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j患性に問題があるためこの長福寺本がすなわち竺仙筆と断定できないとされて(8) 中国の石窟寺院壁画に描かれる維摩は塵尾を手に執るものが多く,南宋・元時代(9) 前掲(5)横田忠司氏による長福寺本・維摩図の解説によれば,中巌円月の賛から元学会,2001年の単身像では払子を執るものが多い。『維摩経』においては持物の指定はなく,当時の中国の文人の持物をそのまま執らせたようである。日本の維摩には塵尾・如意・払子のほか,羽を扇状に束ねたもの,団扇状のものを執る作例が確認できるが,近世においては払子を執ることが多い。南宋・元時代の維摩図の作例は概ね全身の座像で描かれる。現存作例には,東福寺本,ヴイクトル・ハウゲ氏所蔵本,洞春寺本,メトロポリタン美術館本,因陀羅筆・香雪美術館本などが確認できる。このうちヴイクトル・ハウゲ氏所蔵本は天女を伴った姿で描かれる。また香雪美術館本では林や頭光などの背景を描かず,払子を持つべき手も袖の中に隠されて,ただ脇息に寄りかかつて,病苦のためか苦渋に満ちた表情の維摩が表されている。さらに茨城県立歴史館カタログ『特別展室町水墨画・近世絵画.1(1983年)には伝因陀羅筆・福泉寺(茨城)所蔵の維摩図が掲載されている。裏面の修理銘により,元禄五年(1692)に水戸光国が修理したことが判るという。画風から因陀羅筆とは考えにくいが,縦107cm横44.9cmの幅に維摩の半身を描いており文清筆・大和文華館本の図様に類似するようである。詳視していないので断定はできないが,現段階では室町時代の作品と考えておく。徳元年(1329)に来朝した竺仙究悟(1292-1348)が自画賛の維摩図を描いたとわかるといい,長福寺本はもとは巻物の形式で,脇息にもたれて坐す維摩の全身像の右側(巻物だとすると手前)に竺仙の賛があったことを推測されている。ただし中巌円月が賛を書いた応安7年(1374)は,竺仙没後26年が経過しており,信いる。また前掲(7)大倉氏論文によれば,長福寺本は日本で描かれた現存最古の維摩図であるといい,中国禅林で受容された全身像の維摩図を模写・転写することから日本においても維摩の造像が行われ始めたと推測されている。そこで日本における維摩図の初期的形式といえる,竺仙筆維摩図を推測する際に参考になるのが,東京国立博物館蔵・狩野派模本に含まれる,党仙の原画を狩野勝川が写したという維摩図〔図2Jである。縦46.5cm,横95.5cmの横幅で画面を上下三段に分420

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