らを「無縁」の人と捉え,聖なる存在として認識していたことを思い起こすならば(注4) ,乞食・非人の姿そのものが聖地図像であったことが推測できる。表現においては,聖地図像として山水表現と水域表現を挙げたい。これらに関しては,表現方法と造形の意味を検討する必要があるため,多少詳しく論じることとする。まず,山水表現では,二種類の山の表現を挙げることができる。一つは,ほほ左右対称の半円形をなし,樹木によって表面全体が覆われているものである〔図4)。鱗状に配された樹木の葉叢と色彩のグラデーションによって立体感が表出され,丸みが強調されている。この山の表現は,宮蔓茶羅に多数見られることから,おおよそ神体山をイメージさせるものであったことが理解できる。もう一つは,垂直に蛇立する岩山である〔図5)。表面には樹木がほとんどなく,硬質な岩肌が露出している。この岩山は,異国や異界を表す際に描きこまれるモチーフであるが,注目できるのは,阿弥陀仏や菩薩が来迎する道筋に描かれていることである。この場合,岩山は人間界と仏の住まう浄土との境界を示すモチーフであるといえる。さらに同様の岩山の表現は釈迦や菩薩の背景にも散見され,仏や仏国土の聖性を示すモチーフでもあったことが分かる。つまり,ここに挙げた二種類の山水表現は,形態こそ異なるものの,双方とも神仏の聖性を象徴するモチーフであったと解することができる。これらの山水表現は,観者に神仏をイメージさせ,社寺景観を,神仏にふさわしい聖域として荘厳するための聖地図像と考えられる。次に,水域表現に関してまず注目されるのは,海上に浮かぶ「島」のイメージである〔図6・7J。これらは,須弥山〔図8)や補陀落山〔図9)に連なるイメージで描かれたものと思われ,聖なる島を表す聖地図像といえる。さらに注目できるのは,社寺の聖域を取り囲むように描かれた水域表現で、ある〔図10・11)。社寺景観を描いた絵画に散見されるこの「水に固まれた土地jのイメージは,地獄極楽図扉風(金戒光明寺〔図12))に見られるような極楽浄土の「聖なるかたち」を借りたものであり,やはり聖地図像として描きこまれたものといえる。この二つの聖地図像(1島」や「水に固まれた土地J)の造形は,もちろん周辺に川や海が実在していたことに起因するものであるといえるが,同様の水域表現が様々な社寺景観に見られることから推察すると,これらは既に聖地図像として確立していたものと考えられる。興味深いのは,これらの水域表現は,たとえ実景とはかけ離れていたイメージであったとしても景観の中に-428-
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