鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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拝される対象つまり神そのものとして認識されていたことを勘案するならば,その構図を借用して描出された聖絵の聖地もまた,神仏を礼拝するために用意されたものと考えられる。② 安徳天皇縁起絵下関市の赤間神宮に伝わる安徳天皇縁起絵は,現在は8幅の掛幅画であるが,かつては神宮の前身であった阿弥陀寺御影堂の内部を飾る障壁画であった。安徳天皇縁起絵に関しては先学による研究があり(注8),平家物語を基礎とし,幼年で非業の死を遂げた安徳天皇の縁起を絵画化した16世紀の物語絵画であることが明らかとなっている。建物の平面図〔図21]を見ると,障壁画は御影堂の下段内陣の壁に,コの字状に配されていたことが分かる。左右に続く横長の大画面に,右から左という導線で物語は展開している。従来の研究では,主に平家にまつわる説話を絵画化した場面に関心が集中していたといえるが,ここで、は聖地図像を使って新たな解釈を提示したい。注目したいのは,第7・8面である〔図22)。この2面には,物語のクライマックスである安徳天皇の入水と平家の滅亡が描かれるが,他面とは構図が大きく異なっている。画面全体を使って物語を詳細に描き出すことに主眼が置かれる他面とは異なり,本来物語の背景であるはずの景観が画面の主題であるかのように大きく描かれている。中心に大きく描かれたのは,まさに障壁画のあった阿弥陀寺の景観である。景観の中核をなすのは,広大な海を背景に,両面にかけて描き出された阿弥陀寺と,ら海を挟んだ対岸の町並みが点景として添えられている。重要なのは,阿弥陀寺の境内と亀山八幡宮の社地が海に浮かぶ島のような形状で描かれていることである。宇佐八幡神をまつる亀山八幡宮は赤間神宮から南に直線的に歩を進めたところの丘陵にある。現在の地形は,砂の堆積や江戸時代の埋め立てによってできたものであり,かつての社地は島であったという伝承が存在していたことが史料からわかる(注9)。よって亀山八幡宮が島の形状で描かれているのは,実際の地形に基づいたものと推察できる。だが,縁起絵が制作された16世紀には,実際にはその地は陸繋島となっており(注10),そのとき既に伝承として伝わっていたかつての地形を基に描出したものと解される。この亀山八幡宮の景観は,壇ノ浦の戦いが繰り広げられた平安時代の景観として選択され描かれた景観であったといえよう。では一方の阿弥陀寺はどうか。現第8面の左方に描かれた亀山八幡宮の景観であることが分かる。そこに亀山八幡宮か-431-

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