地に赴いてみればわかるが,阿弥陀寺のあった現在の赤間神宮周辺の地形はなだらかな弧を描いた海岸線を伴う陸地であり,絵に表されたような海水に固まれた島でも,海に突き出た岬でもない。また,入り組んだ海岸線も持たない。このことは,下関市に伝わる江戸時代の絵図〔図23Jにおいても確認できる。では,なぜ阿弥陀寺の景観は実際とは大きく異なる地形で描かれたのであろうか。ここで想起されるのが前述した聖地図像としての「水に固まれた土地jの情景である。自らの姿を聖地独特の造形をもって描き出すことで,阿弥陀寺が聖地であることを視覚的に示そうとしたのではないか。阿弥陀寺は,安徳天皇をまつる寺院であり,まぎれもなく平氏の怨念を浄化し鎮魂する霊場すなわち聖地であった。海に浮かび、上がった聖なる島の霊場は,砂浜が金碧で彩られることによって荘厳されている。亀山八幡宮もまた金の砂浜で縁取られた島のイメージで形作られており,周辺一体が聖域であることを視覚的に示しているのである。さらに重要なのは亀山八幡宮から対岸へ延びる「橋J(図24Jであり,これも聖地であることを強調するモチーフといえる。橋の先には町並みがあり,此彼岸=聖俗を結ぶ橋のイメージが転用されているといえよう。興味深いのは,橋は存在感がありながらもリアリティーが感じられないことである。今では実際に橋が架けられていたかどうか知る由もないが,現実であっても非現実であっても,聖俗を結ぶ象徴として描き込まれたものであると考えられる。このように聖地にふさわしいイメージにより形作られた阿弥陀寺の景観は,右方に描かれた2つの島〔図25Jによってさらにその聖性が高められているといえる。2つの島は,阿弥陀寺の沖合いに存在する「干珠JI満珠」と称される島であると思われる。その名が示すように,そこは神宮皇后の聖地であり,呼応するように対で描き出された聖なる島は,亀山八幡宮とともに阿弥陀寺周辺の海域が広い聖域であることを表わしているものと考えられる。以上のように阿弥陀寺と周辺の景観が具体的に,また聖地イメージを伴って描かれていることから勘案すると,この画像が阿弥陀寺の縁起絵として制作されたものであることは想像に難くない。よって,画面の多くを費やして語りだされた安徳天皇の生涯と平家の盛衰という物語は,阿弥陀寺の創建のいきさっと存在意義を語りだすテクストとして機能しているといえよう。それらは画面の最後に描きだされた阿弥陀寺の景観に用意されたテクストであったのである。安徳天皇の縁起はなによりも阿弥陀寺の縁起にふさわしく,また欠くことのできない物語であった。安徳天皇こそ,阿弥陀432
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