寺の存在意義を確かなものとする象徴であったからである。現在においてもなお赤間神宮の前面には,安徳天皇が非業の死を遂げた海が同じ姿で広がっている。かつて阿弥陀寺において障壁画を観た者もまた,当時と変わらない美しい景観を見て絵画世界が現実のものであったことを感じたであろう。そして脳裏に刻まれた聖地画像を思い起こすことによって,阿弥陀寺の土地そのものが紛れもない聖地であったことを改めて認識したに違いない。以上,聖地図像に注目すると,安徳天皇縁起絵と呼ばれる一連の障壁画は,本来阿弥陀寺の創建にまつわる縁起絵であり,1阿弥陀寺縁起絵」とも呼び得る絵画作品として新たに位置付けることができるのである。③ 町田本洛中洛外図一般に町田本という名で親しまれる三条家旧蔵の洛中洛外図(歴博甲本,c図26])は,一連の洛中洛外図の初期的様相を示す作品として知られている。六曲一双の画面には,右隻に東山の景観を背景とした下京が,左隻には,北山から西山にいたる景観を背景とした上京が描かれている。自然描写には,季節感が盛り込まれており,両隻にかけて四季が展開する様が描かれる。つい日がひきつけられるためであろうか,従来の研究では,詳細に描かれた建築や人々の生活の様子に関心が向けられていたため,細部表現やその様式に関する考察が中心となっていた。だが,本作品も聖地図像という観点から作品を考察すると,新たな解釈が可能となる。注目したいのは,右隻である。上部には鴨川が画面を横切るように描かれている。鮮やかな群青で彩られた川は,白い州浜で縁取られ,存在感がより一層際立つている。この水辺の表現は,まさに先に述べた聖地図像のーっとして捉えられよう。画題に注目すると,鴨川を挟み上部には東山の寺社群が描かれ(注11),下部には洛中の下京が描かれていることが分かる。鴨川|は,神仏の宿る空間と町衆の住む市街地とを分かつものとして存在しており,聖と俗との境界を視覚的に示すものといえる(注12)。なお実際にも,鴨川の両岸を聖俗二界に見立てる思想、は存在していたようである。承暦4年(1080)に催行された清水橋における迎講の事例では,清水橋が浄土と現世を結ぶ来迎橋に見立てられており(注13),鴨川|は聖俗両岸を隔てる境界として位置付けられていた。このように考えると,従来実景に基づいて描かれたとされてきた鴨川の情景もまた,聖地図像として描かれたものと考えることができょう。そして,鴨川対岸に展開している社寺景観は,この世の浄土であると考えられる。縁取る433
元のページ ../index.html#443