(6) 佐々木剛三「歓喜光寺蔵『一遍聖絵』の画巻構成に関する諸問題とその製作者に(7) 構図を借用するに当たって使用されたのは,白描の型紙であったと思われる。宮(8) 宮次男「源平合戦絵J(r日本美術工芸』第337号,1996年),千野香織「障扉画の(9) r長府国志』の亀山八幡宮の項に「古老伝に此山もと赤間の海辺に離れたる島なり」(11) 東福寺・観世能・万寿寺・因幡堂・清水・八坂塔・建仁寺・祇園殿・知恩院・南ついてJr国華j912, 1968年3月長茶羅と聖絵の建築表現を比較検討すると例えば建具の有無に関して異なる表現が見られ,それは彩色の段階で生じた甑語であると考えられる。詳しくは別稿に譲りたい。意味と機能南北朝・室町時代のやまと絵を中心にJ(r日本美術全集13雪舟とやまと絵扉風』講談社,1993年),井土誠ir安徳天皇縁起絵図JについてJ(r下館市立美術館研究紀要j4, 1993年3月),西和夫「阿弥陀寺の安徳天皇縁起絵と小泉八雲JU日本歴史j548号,1994年10月)など。と記されている。前田博司「亀山八幡宮の古代・中世『赤間関』集落の変遷のなかでJ r郷土j34, 1989年4月同建徳2年(1371),九州探題に任ぜられた今川貞世が西下の途次に著した『道中日記』に「此関(赤間関)は北の山ぎはにちかく,家とならびて岡のようなる山あり,かめやまとておとこ山の御神のた〉せたまひなりJ(括弧内筆者注)とあり,14世紀には既に陸繋島だったことがうかがえる。禅寺・黒谷・如意ヶ岳・真如堂・吉田・神楽岡・比叡の山・横川が描かれている。上辺から三分のーほどの空間に社寺が多く描かれていることについては,既に佐々木剛三氏によって指摘されている(佐々木剛三「洛中洛外国と社寺霊茶羅Jr古美術j88号,三彩新社,1988年)。同町田本に遅れて成立した洛中洛外図には,町田本のように聖俗の空間を各々独立させて描くといった表現は見られない。例えば上杉本では,洛中の市街地の部分にも社寺が多く描かれ,聖俗は明確に区分されていないといえる。同伊藤唯虞「阿弥陀信仰と民俗的世界Jr仏教と民俗宗教j1984年。435
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