④ 応永詩画軸の研究一一一渓陰小築図を中心として一一研究者:東北大学大学院文学研究科専門研究員室町時代,特に応永年間(1394-1427年)に隆盛した詩画軸には,書斎図と詩意図が多い。本稿は,このうち前者を考察の対象とし,今後の応永詩画軸の研究に向け二,三の見通しを提示するものである。本稿で考察の対象とするのは,書斎図の代表的作例とされる渓陰小築図〔図1J (金地院:1413年)である。本図に記された太白真玄(? -1415年)の序文は,詩画軸の意義を説くものとして知られ,従来,本図の研究も序文の分析を一つの軸としている。その序文で,太白は本図を「心之画也Jとみなしている。島田修二郎氏は,その文句を解釈し,画家が「想像力をもって主人公の心中にある書斎を表現するという意味で心画である」とし,Iこの考え方は書斎図の全盛時である応永期の書斎図の根底にある思想、を代表するものと言ってよかろうJとされている(注1)。しかし,当時,絵を見る賛者にこのような詩画軸の理解があるとしても,絵を描く画家は「想像力」を駆使するだけで絵が描けるわけではない。つまり,見る側と描く側の立場の違いを素直に認めるなら,I心之画也jとは絵を見る賛者の視点からの説明であり,画家の絵画制作をこの文句から理解できる,とは限らないのである。いまく渓陰小築図の画家〉の絵作りを考えるにあたり,この詩画軸の成立に,彼が中心的役割を果たしたことは注目すべきであろう。太白真玄の序文によれば,親友である南禅寺の子嘆口純に贈る詩画軸を企画し,絵を描き,五山の著名な禅僧に題賛を依頼して詩画軸を完成させた人物は,このく渓陰小築図の画家〉である(注2)。画家の存在感が稀薄な室町時代の詩画軸を,島尾新氏は「文人画家なき文人画jと評している(注3)が,その時代状況のなかで本図の画家の文人としての行動力は際立つている。いま,残された言葉が存在しないく渓陰小築図の画家〉が,この書斎図をどのように作り上げたかを考えてみよう。まず,渓陰小築図の全体を見ると,同時代の詩画軸と比べて,絵の構成が非常によくまとまっている印象を受ける。先行研究においても,本図が,近い環境で同時期に畑靖紀-35-
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