「」7代として貞事3(1686)年から宝永7(1710)年の二度にわたって藩主に在任してたとすれば,この扉風全体があたかも画技画題のカタログのような様相を示していることに気が付く。別々に伝来していた12図がここにまとめられたとは考えにくいことからすると,この扉風が制作された意図や背景が窺えるのではないだろうか。さて,次に伝来等についてみておきたい。大安禅寺に残る寛延3年(1750)の『交割帳.1(海玉泉巌筆)には,本扉風について以下のような記事がある(注4)。一押給金扉風一双御城一来但シ僅入これによって本扉風が松平昌親(1640~1711)の藩主時代に大安禅寺にもたらされたことが判る。ただし,昌親は5代として延宝2年(1674)から延宝4年(1676)と,おり,どちらの時期であったかは明らかでない。もし前者であったとすれば,守景が江戸を離れて金沢に赴いたと伝えられている時期にあたり,興味深い。禅寺でこの扉風を見,和歌を詠んでいる。「このみてらに伝れる扉風久隅守景のかきたる画さいつ年も見けることはありけるが今日またねもごろに看てゆくに,大かたのところにて守景ぞ守景ぞといひて見するとはさらにゃうかはりて,まことに魂いれて物しけむ筆のいきほひ見ゆ。なかにも周茂叔の手に蓮華もちであると李太白の爆布見て立てるとの二図はことに抜出てしんにせまるとかいふべき画のにほひなり。これやこの泥のごとくくろがねの研すりたつ腕とぞいふべきJ(注5) このでき事は収められた歌集での位置から慶応3(1867)年の秋頃と考えられる。興味深いのは,何度もこの扉風を見ている曙覧が,一般に守景作といわれている作品とは様が違うと見たことである。確かにこの扉風の各図に見られる繊細さ,あるいは神経質さには,私たちも,よく知られた一連の耕作図扉風の守景のイメージで見ると少しばかり違和感を覚える。曙覧はそれを「まことに魂いれて物しけむ筆のいきほひ」と解釈したが,この扉風の構成を考えたり,大安禅寺に到来した時期を考え合わせたりすることで曙覧とは違った解釈が可能で、あろうし,あるいは曙覧や私たちの違和感に忠実に否定的に判断しなければならないかもしれない。また,幕末の福井在住で,歌人,学者として知られる橘曙覧(1802~1868)は大安守景筆従二探源院殿御代-445-
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