鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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私(曙覧)は,歌についてはその通りとは思うが,この(或る)人についていえば,足ることを知る喜びなどといいながら,結局はそういう雰囲気を味わおうとして,守景という優れた画家の作品を手に入れたく思い悩んでいる。実際の生活を見ても,家人に夕顔だなを作らせ,自分は絹(文紗)のててらを着,奥方にも絹(羅)のふたのを使わせて夕涼みをたのしむ人ではないかと大笑いをしてしまった(菅村解釈)。曙覧が「夕顔棚納涼図」を見たというような直接の話ではなく,時期や場所も明らかでない話ではある。しかし曙覧の守景に対する高い評価を知ることができると同時に,福井城下に住んでいた曙覧の周辺にあった話だとすれば,この作品が牧野男爵が福井県知事時代に入手したという伝えと結びつけることもできょう。伝来に関わる情報のーっとして紹介しておきたい。2 守景の娘に関わる記述小浜酒井家に仕えた画家に,探幽の門人となった中村幽甫(1623~1698)がいる。『敦賀郡誌』によれば,幽甫は探幽から守景の娘雪を要るよう勧められたが断ったというのである。中村幽甫,僧皐雄幽甫は皐雄の弟なり,通称八晴,名は守以,姓を中村と称す。中村は幽甫か里方の姓なり,その改めしは或いは宗的の時にありしかも知るべからず,今詳かならず。酒井忠勝,皐雄の死を惜しみ,その弟を求められしかば,幽甫召されて江戸に赴きたり。忠勝即ち狩野探幽に附して弟子となす。この後八禰を改めて幽甫と云ひ,幽恕、斎と競せり,探幽が名の守の字をゆるし興へしかば,守以と稿せり。幽甫技す、みて高弟となりしかば,探幽もその姪お雪と云ふを配して聾とせまほしく思ひしかども,辞したりと云ふ。此女は雪信とて給事に堪能なりき。寛丈元年正月,内裏炎上,同四年御造替成り,紫震殿賢聖障子の槍を探幽に仰せつけられたり。即ち幽甫伴はれて上洛し,その博彩を手惇へり。此時法橋に叙せらる。六月十二日の事なり。その論旨には皐雄宣叙法橋とあり。酒井忠直の旨によりて此時ばかり墜雄と改められたるなり。そは父忠勝が,皐雄に入唐の契約ありしかども果さずりし故なりとぞ。日光進皆の時にも,亦探幽に伴はれてその槍事を助け,幽甫も彩色牡丹の重を董きしとなり。幽甫,酒井448

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