鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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氏に仕へて忠勝・忠直・忠隆・忠園の四代に及び,その間牛込の邸にありしが,年老て敦賀に蹄り,池子町赤JlI小橋詰北側の角より西の方に家を構へて住へり。時人,中村幽軒老と呼べり。(一後略一)真柄家譜(注7) 雪信の生年を寛永20年(1643)とすると,幽甫とは20歳程の年の差があり,辞したというのも無理はないと思うが,このようなことがあったとすれば,後に駆け落ちをしたという雪信の行動は,守景にも探幽にとっても衝撃的なことであったに違いない。さらに,後輩ともいえる幽甫が,酒井家の後ろ盾があったとはいえ,ここに記されたように探幽のもとで活躍の場を与えられ,叙位されていく様子を,守景はどのような心持ちで見ていたのであろうか。このことを考える参考に,福井とは離れてしまうがもう一つ資料を挙げたい。幽甫と同じように探幽の門人となり,水戸藩の絵師となった池田幽石守郷(初代涼眠)に関する記録である。『増訂古董備考jI四十二狩野門人譜J(一八七五)の池田幽石の項には次のような付記がある。「後ニ探幽,久隅半兵衛守景ノ女ヲ養女トナシテ,幽石ニ妻ス,幽石,探幽ニハ縁父ノ積ナリ。j「要スJとあるから,この守景の娘は雪ではなさそうである。とすれば守景には雪,彦十郎のほかにもう一人娘がいたことになる。事の真偽はおき,ここでは探幽との関係を考えてみたい。池田幽石は水戸藩の絵師となり,その家系は四代に亘って御用を勤めることになる。その幽石に探幽は守景の娘をわざわざ養女にして安らせた。上の幽甫の件といい,探幽は守景,その娘達をどのように見ていたのであろうか。守景がただ腕の立つ弟子とだけ見ていたのでないのは姻戚関係を結んだことでも理解できる。しかし探幽に認められた弟子達がつぎつぎと雄藩の絵師として栄達していく中,四天王の一人に挙げられるような守景はどうして同じような境遇を与えられなかったのだろうか。守景自身はそれをどう思っていたのだろうか。守景が栄誉栄達を望むような性格であったかどうか,確かめることはできないが,一度考えてみてもよいのではないだろうか。吉沢忠先生は木下長晴子と守景の姿を重ねてみておられたが,上のようなことを考えたとき,筆者も同様の感を得る。ちなみに長晴子はかつて福井小浜の領主であった。-449-

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