しミ。は春山図の画家を挑廷美とする意見もあり(注10),楊維禎の周囲で制作された数点の絵画には特定の表現傾向が見られるが,<渓陰小築図の画家〉は,このような李郭派山水図の表現を部分的に参照して,本図を作り上げていると考えることができょう。もう一つ,原本を改めたと思われるのは,本図の遠山の表現である。ゴツゴツと角張った遠山は濃い墨を用いて描かれ,山水図の遠景としては充分な存在感がある。この表現は,南宋院体画様式の山水画に由来するとは考えにくく,何らかの意図により付け加えられたと思われる。このように,太白真玄が「心之画也」とみなした本図にも,実際には画家の具体的な絵作りのプロセスが存在する。本図は,ただ「想像力jの産物なのではなく,目前にした様々な中国絵画の記憶を頼りにしてく渓陰小築図の画家〉が工夫を凝らした結果であると理解できょう。さて,このような画家の絵作りには,どんなメッセージが込められているのであろうか。残念ながら,それを語る言葉が伝わらない今日,画家が絵に込めた意味をすっかり解き明かすことはできない。また,詩画軸のように,連想のきっかけを与え様々な言葉を連鎖的に呼び込む絵画の当初の意味を,図像学により解釈する研究手法の問題点は,近年島尾新氏が指摘するところである(注11)。しかし,そのような史料の残存状況や研究動向にもかかわらず,筆者はく渓陰小築図の画家〉の想いをもっと細やかに見つめたいと思う。渓陰小築図において,画家は,当初から絵に込められた意味と,絵から拡がってゆく自由に読み解かれる意味の,連鎖の中心にいるからである。その読み解きが単なる邪推にならないために,近い環境にある同時代の禅僧の言葉を参照し,<渓陰小築図の画家〉が絵画に込めた可能性のある意味を,あるいは,彼が絵を見る賛者や子嘆口純が読み解くだろうと予見した意味を,間接的に探ってゆきた画家の意図を探るにあたりまず注目したいのは彼が原本を改めた表現である。応永詩画軸には,原本の中国絵画を比較的素直に写し取る三益斎図(静嘉堂文庫美術館:模本(原本は1418年))や待春軒図(出光美術館:1419年以前)等の作例がある(注12)。そのため,本図における表現の変更には,詩画軸の企画者であり絵の制作者-37-
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