える半円柱は,フランスのゴシック聖堂とも異なり,まったくイタリア的なものである。これはナポリで最もフランス的と考えられているサン・ロレンツオ・マッジョーレ聖堂と共通する(注21)。また内陣アーチは先端がわず、かに尖っているが,ほぼ半円を成し,非常に古典的な印象を与える。さらにドイツに見られる二階修道女席はいずれも低い所に設置されているのに比べて腰高である。実際ドンナレジーナ聖堂で二階席を支える寄蔭天井は,柱身と柱頭の上に載せられているが,ドイツでは柱とリブ付きアーチが分節化されず,アーチが床面からそのまま立ち上がっているかの印象を与えるものもある〔図16)。南イタリアにはシトー会の工人によって,直接フランスのゴシック様式がもたらされた例が見られる。それは現在ラツィオナ|、|東南部にあるカザマーリとフォッサノーヴアの修道院であり,現在は廃嘘と化しているがアンジ、ユ一期のサンタ・マリア・デツラ・ヴイツトーリアとサンタ・マリア・デイ・レアルヴアツレ修道院である(注22)。後者は,フランス出身王家の権力を表徴するものであったが,当時シャルル一世によって王国の造営活動のため,多くのフランス人建築家が呼ばれている。またシトー会だけでなくフランシスコ会も修道会内に専門的な建築家(集団)を置き,ある程度均ーな様式を広めることになったと推測されている(注23)。これに対してドンナレジーナ聖堂の場合,ドイツの女子修道院建築とのタイプの類似は非常に重要で、あるにもかかわらず,ドイツの作例を直接写し取ったものではない。それゆえ両者の関係は現在のところ,やや一般的な歴史的状況から推測せざるをえない。以下いくつかの事例を挙げておきたい。1289年のマリアブルクハウゼン修道院に関わる腫宥状には,サレルノ大司教フィリッポ,ガエータのバルトロメオらの署名がある。これはハプスブルク家から初めて選ばれたドイツ王ルドルフ一世が,ヴュルツブルクで公会議を召集した時のものである(注24)。ルドルフ一世は教皇からローマ帝国の帝冠を受けることを望んでおり,当然のことながらイタリアとアルプス以北の地域との聞の交流は緊密であった(注25)。イス,Kt. Aargau, Windisch)は,3径間分の延長部を持つ長後障を備えている。このフランシスコ会男女共住修道院は,ドイツ王アルブレヒト一世の暗殺された地に,寡婦となった王妃エリザベトが造営したもので,ハプスブルク家の最初の興隆期を証言するものである(注26)。ナポリのアンジュー家は,ハプスブルク家から二人の妃を迎1310年に建造が開始されたケーニヒスフェルデン(Konigsfelden)修道院聖堂(現ス-460
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