ら,郭照の伝承を伴う山水図は,遅くとも15世紀中葉までに京都周辺へ伝来していたと考えられる。その画面を想像する参考史料としては,r探幽縮図J所収の郭照筆山水図縮図〔図6J (注19)があり,縮図に類する千巌万霊園〔図7)(台北故宮博物院)のような李郭派山水図が,郭照の作品として日本に請来されていたと考えられる。当時の中国絵画理解の状況を考慮するなら,渓陰小築図の雲煙表現が,このような高名な郭照の山水図にならった可能性は充分に予想される。いま,本図の表現が郭照画を継承したものであると考え,屋上屋を架してく渓陰小築図の画家〉の意図を想像してみよう。室町時代の禅僧は,当時愛好された中国文学を通じて,中国人画家のイメージを形成している。なかでも,禅僧にとって特別な存在である蘇東壌の詩文には,郭照の山水図を詠んだ「郭照画秋山平遠jがあり,この詩文を媒体として郭照はひろく知られていた(注20)。「玉堂重掩春日閑,中有郭照画春山」とはじまるこの蘇東披の七言古詩は,I玉堂」つまり開封宮城内の翰林学士院に,郭照が描いた春江暁景図をうたうものである(注21)。筆者は,<渓陰小築図の画家〉がこの「玉堂」を「瑛玉jたる子嘆口純の書斎と結びつけたのではないか,と想像したい。図式的に述べるなら,I蘇献がよんだ,郭照の,玉堂(翰林学士院)の,春江暁景図jの表現を継承することで,I五山の禅僧が賛を記す,<渓陰小築図の画家〉の,子瑛口純の書斎に掛けられる,渓陰小築図」にそのイメージを投影することができる。その蓋然性は慎重に検討しなければならないが,大愚性智が本図に記した賛文の冒頭には,蘇東坂「郭照画秋山平遠Jの語棄「青障」が用いられるなど,その可能性を一概に否定することはできない。ここには北宋時代と室町時代の二つの物語を重ね合わせることができるが,これを認めるならく渓陰小築図の画家〉自身も物語の登場人物となり,偉大な中国人画家に準えられる仕掛けは,たいへん興味深い。以上,<渓陰小築図の画家〉の表現意図を考えるために,確証の得られない想像をめぐらしてきた。それらの表現の元々の意味は,最終的にはよくわからないものの,少なくとも,画家が凝らした工夫が,絵に多様な意味を呼び込むきっかけになっていることは理解できそうである。それが画家の意図した絵作りであったかどうかも確認できないが,筆者は,原本の表現を変更する本図には,詩画軸の企画者であり絵の制作-39-
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