者絵の一覧である。相合傘の構図を持つ紅摺絵は,お七吉三CNo.59J,大磯の虎とめいどの小八CNo.10J,笠屋三勝とあかねや半七CNo.53J,平野屋源兵衛と天満屋おまてこの演出が行われたため,同じ図様でも取材された演目が異なる。石川豊信の紅摺絵作品〔図1Jは,役紋からお染久松の道行と分るが,実際の芝居に取材するのではなく役者取り合わせの見立と言われてきた。同じお染久松を描いた作品,細判3枚続作品のうちの左図CNo.59Jも役紋から物語上の人物は判断できるが,役者の特定はできない。この3枚続の中央図はお七吉三郎,右図はお梅粂之助の物語を主題とし,相合傘の構図が複数の物語の意味を持ちこの3つの物語が近しい関係とみなされていることが認められる。芝居の興行記録を見ると,宝暦6年(1756)3月中村座二番目大詰「三つ傘暁小袖J(注5)では,I三勝半七JI梅川,忠兵衛JIお初徳兵衛」の道行が上演されており,3枚続の相合傘図は,このような芝居の演出からの影響が推測されるが,上演記録を特定するものではない。この他,奥村政信CNo.42J,万月堂CNo.61],鳥居清満CNo.60JC図2J,といった紅摺絵にも3枚続の相合傘図があるが,これらには物語を特定する要素は描かれない。鳥居清広〔図3Jの作品には,傘に役者紋が記されているが,3組とも上演記録は確認されないため,役者取り合わせの見立と思われる。清満〔図2Jと万月堂の中央図と,清広〔図3Jの左図は,男性の髪型から野郎と判断できる。また清満〔図2Jと万月堂の中央図,清広〔図3J の左図,そして政信の左図の女性は,遊女に見られる前帯をしており,豪商椀久と遊女松山の道行の図と近い〔図4J。八百屋お七と椀久松山が趣向として演出された芝居の上演記録は確認できないが,奥村政信の作品に描かれた,寛延3年(1750)正月市村座「通髪衝曽我」の芝居番付の中に「わん久物狂亀三」という記述がある〔図5J。この芝居の配役が,中村喜代三郎のお七と尾上菊五郎の吉三とあることから,八百屋お七と椀久松山の物語を趣向に取り入れた芝居と考えてよいだ、ろう(注6)。清満や万月堂,政信,清広の作品は,この芝居の演出との関係を思わせる。寛延2年(1749)正月市村座「通神衛曽我」に取材する役者絵〔図4Jから,椀久松山の道行は,清広作品〔図3Jに描かれるように,男性が女性に傘をさしかける独特な形と分かる。またこの図は,役者の紋と着物の柄ゆきとして描かれたので特定の芝居を控めに暗示する〔図1]と同じ手法である。歌舞伎を主題にする紅摺絵には,このように象徴的なつCNo.32J,半七とお花CNo.3, 29, 30J,関東小六と早咲姫CNo.35J,椀久松山CNo.36, 37, 38J,お染久松CNo.59,62J,お梅粂之助CNo.59Jと,道行の典型とし485
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