構図やモティーフによって物語を限定する手法もあり,先にあげた3枚続の様に,芝居を特定しない場合でも,さりげない描き分けによって想像される物語の枠を限定することも行われている。その上,役者の取り合わせを想像することも楽しんでいる。このような表現は,一般に図様の意味が定着しているから行うことが出来る手法である。次に,八百屋お七の芝居を例に,作品に用いられたモティーフや構図にどのように意味が定着しているのかを確認する。現段階で確認した中で,相合傘の構図がもっとも早く描かれた例は,羽川珍重「三条勘太郎のお七と市村竹之丞の吉三郎J(細判紅絵,ボストン美術館所蔵)(No. 1]である。役紋と役者紋から,享保3年(1718)正月市村座「七種福寿曽我」を題材にすると分かる。八百屋お七の趣向で大当たりをとった芝居である。大らかな墨線が力強い印象を与えるこの作品は,豊信の紅摺絵の清酒な相合傘図や春信の黒白が象徴的な相合傘図とは制作年代の差を感じさせる。しかし背景や着物の柄の修飾が削ぎ落とされていることによって,手彩色で染められた淡い紅色と,黒い合羽の色を対比させるという表現が,春信作品に通じることが強調されて興味深い。初期浮世絵に特有の大胆でシンプルな表現が,偶然,春信の象徴的表現と結びついたといえるかもしれない。しかしこの親しさの最大の原因は,吉三役の役者が着ている黒い袖合羽だろう。袖合羽は,珍重以後の作品にも,独特な形と色がしばしば目にとまるので,芝居の演出だったようである。紅摺絵以前の浮世絵では,芝居で用いられた小道具によって場面を想像させることをはじめた作例が確認される。奥村利信の享保期の作品〔図6Jを見ると,吉三の着物に将棋盤と駒の模様が見られる。別の奥村派による制作と思われる無款の作品〔図7Jでは,京都の遊女と遊客が将棋盤の替わりに升目模様の羽織で将棋をさしている。奥村利信の2作品は上演記録が確認できないが,芝居の小道具や演出からの影響が考えられるモティーフである。別の例をあげたい。享保3年(1718)正月市村座「七種福寿曽我jで,お七役の三条勘太郎が,初世嵐喜世三郎の7回忌追善のため,喜世三郎の替わり紋,封じ丈をつけたのが始まりで,その後はお七の役紋としてこの紋が用いられた。お七の役者絵によく描かれている。ハワード氏は,鳥居清忠の享保期の作品〔図8Jで,女性の着物の柄としてお七と吉三郎の紋が描かれることを指摘されている(注7)。女性が手にする本には『油やお染寄さいもん』と題されている。お染久松の心中事件を題材とした芝居は,享保4年486
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