(1719) 9月中村座「菊重金札祝儀J4番目名残「お染久松心中」にて江戸で初めて上演された。この時の演目の役名に八百屋お七の世界の人物は見られない。(注8)しかし,この芝居に取材する,奥村利信の〔図10Jには恋文が描かれている。また〔図8Jは『八百屋お七』と題された本を持つ奥村政信の「水木菊三郎のお七JC図9Jと類似する。芝居でお染久松の道行が行われたのは,寛保3年(1743)春中村座「門緑常盤曽我」からで,(注9)技法からも寛保以降の制作とみなされる。紅摺絵3枚続の作品八百屋お七の物語では,火事で吉祥寺に非難してきたお七と,寺小姓の吉三郎が交わした恋の起請文が,その後の事件の契機となる重要な小道具でもあった。上演に即した作品に,手紙そのものが描かれることも多い〔図11J。寛保3年にお染久松の芝居の演出で道行が行われる以前には,文そのものが,八百屋お七とお染久松の2つの物語を連想させるモティーフであったと見なすことが出来るだろう。芝居の小道具によって物語を象徴させ,芝居の趣向をも表現している。そして役者絵によって定着した構図や,モティーフは,趣向としてとりいれた芝居も含めて意味を増長していく。この2つの例は,いずれも着物の模様が芝居内容を表すモティーフとなっており,着物に描かれることの多い役者紋,役紋と近い性質をもっていると思われる。次に,構図の展開をみることにする。奥村利信の享保期の作品〔図12Jに,嵐喜世三郎の役者紋をつけた着物姿の美人像がある。この作品の短冊には「寄人の心をょするわかのそらゆかしきものはあらしのきみ」とあり,嵐喜世三郎の舞台姿を追善する歌と判明する。満開の桜の枝と短冊は,芝居を特定することが出来る物館初代鳥居清倍「三条勘太郎のお七J(大々判丹絵,ボストン美術館)と共通していることから,芝居の演出からの影響が考えられる。〔図13Jは石川豊信の漆絵である。寛保元年(1741),江戸に下った人気若衆方の佐野川市松が衣裳に用いて有名になった市松模様(注10)の帯をしめているので,その頃の制作と考えられているが,市松模様によって役者を特定するのではなく,着物の柄としてこの作品に魅力を加えており,芝居内容を離れた美人画として個性を確立している(注11)。しかし,満開の桜樹の下の女性像〔図11Jや和歌の書かれた短冊〔図12Jが,八百屋お七の物語世界とのつながりを連想させる。〔図14Jは,C図13Jの構図を反転した作品である。前帯から遊女であると思われ,CNo.59Jでは,お染久松とお七吉三の物語が結びつく接点は構図である。487
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