幅対Jという題から,実際の上演演目に則さない可能性が考えられるが,この2図がが,嵐音八と菊之丞の役紋から元文~寛保頃(1736~1744)の作と思われる。『娘風三先に触れた,寛延3年(1750)正月市村座「通神衛曽我Jでの,八百屋お七と椀久松山の趣向の取り合わせの影響が考えられるが,役者紋などがないため,役者絵とは判ぜられない。古山師胤の享保期の漆絵作品〔図15Jは,役者紋と役紋から三条勘太郎のお七と分るが,芝居は特定できない。この祇紗を口にするしぐさは,八百屋お七の所作として行われたらしく,寛延3年(1750)正月「通神衛曽我」に取材する豊信の作品〔図11Jで,お七役が同様に描かれている。師胤作品を反転した構図をもっ,西村重信の作品「菊酒屋むすめJ(細判紅絵,ボストン美術館所蔵)は,タイトルと役紋からお菊幸助の芝居に取材すると分る。お菊幸助の物語は,享保19年(1734)中村座「加賀お菊妹背酌」にて初演されるが,八百屋お七の趣向については確認できなかった。師胤や重信作品に描かれた,着物の袖から透ける腕の表現と,柳の下の縁台に座す構図は,豊信の紅摺絵にもある〔図16J。右図の看板に,Iすが原伝授手習鑑稽古上るり」とあるが,左図は鳥居派や豊信の作品にある「あぶな絵」によくある構図なので,美人画の表現様式として,縁台に座す構図や透ける着物の表現も消化されていると考えることができる。以上の様に享保期の紅絵・漆絵では,役者紋や役紋が記号的に芝居を特定し,構図やモティーフは物語を象徴し,芝居の趣向を想像させていたが,紅摺絵時代には同じ構図やモティーフによって,役者絵以外の一枚絵の中で特定の芝居から離れた世界を展開している作品が,登場しはじめることが確認できた。そして,絵摺絵が行われはじめた寛保期頃の制作と思われる豊信の漆絵〔図13Jに,その現象がはじまっていることが確認できた。最後に上方との関わりについて触れたいと思う。享保15年(1730)刊の,祐信『絵本常盤草』にある帯を結ぶ女性の図は,奥村政信,鈴木春信が図柄借用したことが,鈴木重三氏に指摘されている。この図柄の系譜に加える作例をあげたい。一枚絵ではないが,石川豊信が挿図を担当した絵俳書『壮盛末摘花.1(宝暦7年(1757)刊,国立国会図書館所蔵)のー図にも同じ構図がある。一枚絵では,西村重信の享保17年(1732)春市村座「松竹梅根元曽我」に取材する「瀬川菊次郎の八百屋お七J(細判漆絵,シカゴ美術館所蔵)と,同じく重信の作品「むすめさんふくつい左本町弐丁目いとやのこいとJ(細判漆絵,ホノルル美術館所蔵)である。これは,演目を特定できなかった488
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