芝居と関連があること,そして政信絵本の題が「踊子娘Jであることから,役者絵の中で継承された構図が,祐信,政信,豊信では美人画の分野で用いられていることが分かる。ほとんどの演目は,上方で上演された後,江戸に下るので,祐信作品と,上方で上演された芝居について課題が残った。八百屋お七の場合,上演記録を確認すると,宝永3年(1706)正月大坂嵐三衛門座で興行された嵐喜代三郎の「八百屋お七Jが大当たりをとり江戸まで評判が届いたとあり,宝永5年(1708)正月,嵐喜世三郎がお七を江戸で初演し,同6年(1709)3月にも同座で上演どちらも当たりであった(注12)。このことから,西川祐信絵本の図はどれも役者絵ではないが,関西で大当たりを取った八百屋お七の芝居との関連を考えなければならない。西川祐信の絵本は,春信や豊信などの江戸の浮世絵師による図柄借用が指摘されているが,祐信絵本からの学習と指摘されながら,芝居を象徴する図様として祐信と同時期の江戸の作品に定着している構図やモティーフが確認される。祐信の肉筆画にも,同様のことがいえる。享保期の作とされている〔図17)は,先に触れた古山師胤〔図15)や西村重信による同時期の版画作品と同じ主題である。構図を反転した例が「柳下納涼美人図J(紙本著色,出光美術館所蔵)である。〔図18)もまた享保期の作といわれており,同時期の利信〔図12)のモティーフや,時代が少し下る豊信の構図〔図13,14)に通じる。江戸の版画が,紅摺絵が誕生する時期に当る寛保期頃を境に,上演に即した芝居絵の構図から美人画の主題として幅を膨らませていくのに対し,同時期の祐信の肉筆画はすでに,美人画として完成しており,芝居の世界を匂わせる要素はみられない。〔図17)は,胸をはだけで着物が透けている点が,紅摺絵期に登場する新しい主題である,あぶな絵の影響を思わせる。漆絵や紅絵では芝居の演出として描かれた構図やモティーフを,紅摺絵では美人画として表現することを祐信に学んで、いる。構図やモティーフが芝居の世界から離脱し,美人画として描かれはじめたとき,以前その構図が描かれていた意味を重ねて鑑賞することが行われ始めたのではないだろうか。以上のように,享保から宝暦にかけて,技法でいうと漆絵から紅絵,紅摺絵時代にかけて,構図やモティーフの意味づけの展開を確認することで,おぼろげながら,人物表現の性質が変化し,作品の見方も変容していることが確かめられたように思う。芝居の趣向として種々の物語が取り入れられると,絵画の方では,芝居内容を象徴-489
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