鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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注(1) 島田修二郎「室町時代の詩画軸についてj島田修二郎・入矢義高監修『禅林画賛J者でもあるく渓陰小築図の画家〉の主体的な構想、が反映されていると考えたい。ここで筆者が問題にしたいのは,応、永詩画軸の絵作りにおける「画家の主体性」である。従来,詩画軸の研究では,題賛に関する考察は大きな成果を上げているものの,絵の表現に即した研究は少ない。その現象の背後には,詩画軸の絵を低く評価し,その表現分析を研究課題として取り上げない傾向が存在する。こと渓陰小築図に関しては「愚直,素朴」で「絵画としての魅力に欠ける」とする評価が繰り返され,その言い回しは,絵に対する研究者の心象を,絵の観察を行う以前に形成している。確かに,詩画軸の絵には職業画家的な技巧を駆使する筆遣いはあまり見られない。しかし,筆者は,その穏やかな心温まる表現に込められている様々なメッセージを,絵の質を理由に漠然と無視することは生産的ではないと考える。一つの詩画軸の誕生を理解しようとするとき,その表現に込められた,あるいは込められ得る想いを問題にしないわけにはいかないからである。詩画軸の絵を低く評価付け,その結果として表現の意図を考えることを保留してきた従来の研究態度に対し,今後は,画家の絵作りのプロセスを明らかにし,画家が絵に込めた意味と絵が呼び込む意味の豊かさを想像して,これらを詩画軸のなかに細やかに見つめてゆく視線が必要で、あるように感じられる。本稿では,絵画制作における「画家の主体性」が顕在化しやすい渓陰小築図を例として取り上げたが,むろん,画家が詩画軸の成立にどのようにかかわるかは多様であり,これを一元化して考えることはできない。しかし,このケースが提示する課題を受け止めることで,応永詩画軸の研究に,何らかの展望が開けるのではないかと思う。今後とも,注意深く詩画軸の世界を見つめてゆきたい。毎日新聞社,1987年,21頁(2) 大西慶174渓陰小築図」前掲『禅林画賛j223頁を参照。なお,渓陰小築図の画家を明兆とする伝承があるが,私見では認められない。(3) 島尾新「ドキュメントとしての絵画一「王義之書扇図Jの画と詩一Jr美術研究』363, 1996年,27頁40 -

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