(4)初期浮世絵について,ハワード・A・リンク氏は「初期浮世絵の真価を知るに(5) 伊原敏郎『歌舞伎年表J3巻,岩波書庖,1993年,268頁(6) 伊原敏郎『歌舞伎年表J3巻,岩波書庖,56頁(7) ハワード・A・リンク「初期浮世絵版画一ミッチナーコレクションを中心にJr浮(8) 伊原敏郎『歌舞伎年表.11巻,岩波書庖,526頁(9) 伊原敏郎『歌舞伎年表.12巻,岩波書庖,413頁服部幸雄他編『歌舞伎事典.l,平凡社,1993年,243頁は,単に線や色の配置だけでなく,歌舞伎の知識で鑑賞することが必要である」とし,I暗示されているものの複雑性が版画の最終的効果の重要なーいわば生命鼓吹的な要素になっている」と述べておられる。ハワード・A・リンク「初期浮世絵版画一ミッチナーコレクションを中心にJr浮世絵緊花.110巻,小学館,1985年,220頁世絵緊花.110巻,小学館,1985年,220頁同古くからあった模様だが,寛保元年(1741)江戸中村座に下った若衆形の歌舞伎役者,佐野川市松が袴や帯にこの模様を使って有名となって,女性の聞に流行してから市松模様として普及した。『原色浮世絵大百科辞典J5巻,大修館書店,1980年,88頁明治44年,宮武外骸の雑誌『此花Jによって西村重信と同一人物説が唱えられた。その根拠は,元文2年(1737)刊の版本『女今川錦の子宝』の扉絵に西村重信の落款があったものが,同書の宝暦12年(1762)刊本には豊信落款に改められているというのである。しかし元文2年刊本が未発見のため,この説は疑問のまま,豊信の活躍当初の画歴は判然としていない。よって,豊信の漆絵,紅絵作品の多くが役者絵ではないため制作年代を確定できない。活躍初期と思われる作品が,柱絵判・長大判の大作で,最初から画風が完成しているため,疑問が残る。同伊原敏郎『歌舞伎年表J1巻,岩波書庖,1993年,344頁同岩田氏は,春信の頃の見立の概念は,複数個の事物を他のある統一的概念のそれぞれに「よそへJIなぞらへ」操作であるとし,春信の頃の「ゃっし」の概念こそが,古典的な画題を当世風に描くもので,形態的類を伴うと説かれる。浅野氏は,基本的な部分で岩田氏に異論はないが「見立」と「ゃっしjはまもなく混同され,-491-ω 石川豊信が作画活動をいつから始めたのかまだ明らかにされていない。
元のページ ../index.html#501