鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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⑩ 工部美術学校研究寄与一一教師アキッレ・サンジョヴ‘ァンニの画家形成過程を中心に一一研究者:早稲田大学大学院文学研究科博士課程河上真理l. 明治政府は「百工奨励」の目的で工部省を設け,1870年にはその教育施設として工学寮を創設した。1876年11月,同寮内に美術学校が開校する。工部美術学校である。美術学校創設の気運が起こった時点では,これも殖産興業政策を推進する工部省の目的に忠実に則った教育機関になることが期待されたであろう。が,周知のように,工部美術学校の規則に記された「百工ノ補助トナサンカ為ニ設ケル」という所期の目的を呆たしたかと言えば,結果はこれに符合しているとは言い難い。これは,文化史・美術史的観点及ぴ日伊聞を中心とした外交史的観点から見た工部美術学校の複合的な設立事情に深く関わっているということを,ここでは指摘するに留めたい(注1)。しかしながら,工部美術学校は「百工ノ補助jとなる美術もしくは技術を行う者を輩出したからではなく,本邦初の正統な西洋美術教育が行われた官立の本格的な美術学校として機能し,その結果多くの美術家及び美術教育者が巣立ち,また彼らの元から次世代が育っていった事実ゆえに,その存在意義は日本の近代美術史上に刻印を留めているのだと考えられる。初代画学教師アントーニオ・フォンタネージは手本模写による素描習得から始まる正統な西洋絵画教育を導入した。二代目のプロスベロ・フェッレッティの後任として,イタリアでの選考過程を経て招聴されたアキッレ・サンジョヴァンニは,フォンタネージにも増してアカデミックな美術教育を行った。すなわちルネッサンス期以来の基礎的な美術教育の一つである裸体研究を特に重視した。このことは彼が教師時代の生徒らの手本を模写した習画作品から明白に窺える(注2)。従って,サンジョヴアンニの起用によって西洋の美術家養成機関に匹敵する美術学校としての工部美術学校の機能がより強固なものとなった,と解釈することも可能であろう。そうであるならば,彼の教育方針を決定づけたと考えられる,その画家形成過程を検討することは,工部美術学校が結果的に果たした役割の再検討に寄与することになるまいか。ここに,彼の出生と画家形成過程を明らかにしたい。499

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