鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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4 )。サンジョヴアンニがアカデミスムの内にいる画家であるだろうことは,たとえば〈山尾忠次郎像}(図1Jから推察されてきたし,また近年の展覧会(注3)で公表された〈ヴイットリオ・アルフイエーリの生涯の逸話}(図2J, <ベンヴェヌート・チェツリーニの工房)(図3J, <伊太利皇帝)(図4J, <亜米利加合衆国大統領)(図5Jなどは,さらにそれを確信させた。しかしその経歴は依然として不明のままであった。我々の推測を裏切ることなく,彼は伝統的な美術家養成機関の一つであるナポリ王立美術学校(RealeIstituto di B巴lleArti di Napoli)に学んでいることが判明した。現ナポリ美術学校古文書室には同校入学時から在学中の画家に関する複数の手書きの文書が保管されている。これにより出生が判明し,また画家形成の一端が明らかになった(注画家は1840年8月14日,26歳の手袋職人のヴインチェンツォ・サンジョヴァンニナポリ市のトレ・レジーネ小路(VicoTre Regine) 12番に誕生した。新生児の名前は「アキッレ・ロップレード・ジョヴァンニ(AchilleLoffredo Giovanni) Jで、ある(注5)。サンジョヴァンニは1854年2月24日付けで同校への入学を許可された(注6)。次の三件から学生時代の姿が推察される。両シチリア王国から徴兵されたサンジョヴァンニは兵役免除願いを行った(注7)。役免除の推薦をし(注8),その結果,兵役は王立孤児院での使役に代替された(注9)。以上の書簡から,彼はマンチネッリが指導する「初歩素描教室で大いに進歩」を見せ,「教室内におけるコンクールで複数の賞を受賞しJ,I裸体画研究に関する月間成績及び、等身大の裸体画制作で、際だ、った成績」を得ていることが分かる。二年後,同校の学生として「歴史画家の経歴Jを積んでいたサンジョヴァンニは「県の助成金j申請をしている(注10)0 1861年5月21日付けの同校絵画科教師カミッロ・グエッラは校長宛に助成金申請のための推薦をし(注11),校長は文部省事務局長にこれを伝えた(注12)。以上の書簡から,彼はグエッラが指導する「生きたモデルで勉強をする絵画科第三教室で常に進歩を見せJ,I月間成績で数回一位になったJことが判明する。ナポリ県庁のジョヴァンニ・ヴイゾーネの1862年2月17日付けの書簡から,画家が恐らく3年間続いたであろう岡県の助成金を得たことが分かる(注13)。ここ2. (Vincenzo Sangiovanni)と22歳のマリアンナ・グレカ(MariannaGreca)の子として,1859年5月17日,ジ、ユゼツベ・マンチネッリ教授はビエトロ・ヴァレンテ校長宛に兵500

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