鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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で,後に画家の日本行きを助ける未来の宮内大臣ヴイゾーネとの避遁が注目される。以上のように,サンジョヴァンニは,素描力を最重視し,なかでも理想化された裸体画を至高のものとみなす(注14)16世紀以来の古典的な絵画教育を踏襲した,典型的な19世紀のアカデミックな美術教育を受けたことが分かる。美術学校の優秀生徒は兵役が免除されていた事実(注15)からすると,孤児院での使役への代替とはいえ兵役を免除されたことは,彼が当時の価値観からすればかなり優秀と評価されたからだろう。またローマ賞(注16)ではなかったにせよ,勉学継続のための助成金を得たという事実もそれを物語っていよう。サンジョヴァンニは1854年から助成金を得ながら1865年頃まで同校で学び,助成金が終了する頃には画家として一人立ちしたであろう。事実,その熟達さはイタリア王国政府から認められた。1865年作成の王室財産目録のカボディモンテ宮「第17室」にヴイゾーネに本作品の写真撮影のために王宮外への作品持ち出しの許可を申請している(注18)ことから,これ以前に本作品が王室コレクションに入ったことは確かである(注19)。本作品によって画家はその後も続くことになる王室との関係を築いたことが注目される。サンジョヴアンニは渡日以前の1869年から6年間ベテルブルグに暮らしている。から.Iベテルブルグへの出発」が間近であることが知られる(注20)。彼の地への出発理由及び滞在中の詳細な活動については不明だが,同地滞在が先に築いたイタリア王室との関係からもたらされた可能性はある。そして,画家は1875年10月5日以前には帰国している。この日,アゲーモに日本に創設される美術学校の教師に応募するための推薦状を依頼しているからである(注21)。画家として脂が乗っていく時期にあたるこの6年間を異国で過ごしたことは,次に述べるように,サンジョヴァンニを故国における新たな美術潮流からますます隔てるだけでなく,旧派の画家として生きていくことへの自信を強めるのに役立つたに違いない。“Dipinto su tela. Il maestro Paisello [sicJ. di A. Sangiovanni. m. l. 85 per l. 25. Cor-nice dorata" (注17)との記載がある。1865年3月3日,画家は王宮監督官となっていた1869年4月17日付けの画家発ナターレ・アゲーモイタリア国王陛下特務局長宛の書簡501

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