鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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3. サンジョヴァンニはナポリ王立美術学校において素描習得,特に裸体画習得を重視する当時の典型的なアカデミー教育を受け,その限りにおいて好成績を残していることが判明した。しかしながら,画家が在学中であった1860年,ナポリがブルボ、ン家支配から解放されイタリア王国に組み込まれた後は,ナポリ王立美術学校の教師もマツキャイオーリ派と近い人物に交代したり,イタリア王室の美術コレクションに前衛的なものが含まれるようになるなど,新派が台頭していく。これに反し,旧派は徐々に舞台の後ろへと退いていくことになる。けれどもマンチネッリやグエッラといったナポリの代表的な旧派の画家から薫陶を受けたサンジョヴァンニは,修業後も画家形成期に習得した古典的な美術観に絶対的な価値を認め制作を続けたことは,周知となった作品から看取できょう。そして教育者としても,19世紀の旧派のあり方を典型的に体現することになる。1879年4月,工部省はフェッレッテイの後任教師選考を在日イタリア公使館に依頼し,イタリア文部省を主管として選考が開始される。1875年の教師選考を含め,教師選考についての詳細は別稿に譲ることにしたいが,美術学校創設時の選考に落ちたサンジョヴァンニは此度,敗者復活を期してこれに応募する。最終的に,やはり前回の選に洩れたアルベルト・マゾ・ジッリとの決戦となる。この選考過程でサンジョヴァンニは,絵画及び素描教師は裸体画を習得し,これを教育できることが必要不可欠だと力説し,自説を代弁するに足ると考えた「古代ローマ拳闘家jを題材とした作品他数点を提出しており,この分野における彼本人の絶対的な自信を見せつけている。この自信は美術学校時代に修めた成積や,その後さまざまな肖像画や歴史画などの制作委嘱を受けてきた経歴に起因するのであろう。宮内大臣ヴイゾーネの駄目押の推薦によって栄冠を得たサンジョヴァンニは,日本という遠方の地において初めて,彼自身が画家形成過程において受けたのと同様な,彼が理想、とするアカデミックな美術教育を実践する機会を得るのである。「美術における文明化」をするという使命感をもって臨んだ彼の教育は,熱意あるものであっただろう。事実,彼の厳格さは,教師の叱責により曽山幸彦が自ら画布を裂いた逸話などから知られるところである(注22)。サンジョヴァンニが行った19世紀の典型的な旧派のあり方に直結する美術教育は,その厳格さも含めて,師匠の教えにもっとも忠実で、あったという曽山へ,そして次世502-

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