鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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ハHハUUムの台頭によって,マチスは1912年頃にはすでにパリ画壇における前衛のポジションからは遠ざかっていたが(注4),12年から13年のモロッコ旅行のあと1916年頃までは抽象度の高い作品を描いており,少なくともその頃まではパリ画壇の前衛の動きを意識して制作していた。ところが第一次ニース時代(1916年頃-1930年)におけるマチスのスタイルは,より自然に即した穏やかなものになり,また彼が20年代を通じて好んでとりあげた印象派を想起させる風景画や,オダリスクや花々を配したニースの光にあふれる室内は,1秩序への回帰Jを代表する作家としてのマチスの地位を不動のものにした(注5)0 1920年に「新フランス画家叢書」第一巻としてフランスではじめて出版されたマチスの単行本は,すでにマチスをフランス絵画の伝統に連なる画家とする視点を表明しているのである(注6)。ドランについていえば,1911年頃にはすでに前衛を志向することをやめており,戦前と戦後でマチスほどにはスタイルに大きな変化は認められないが,写実を重んじた暗い色調の作品によって1920年にはこの画家は「もっとも偉大な現存画家jとして賞賛されることになる(注7)0 1920年代マチス,ドランの作品のパリ美術市場での価格は急速に上昇し,戦間期のフランスで最も景気の良かった1926年から28年頃には,かれらの近作が記録的な値段でオークションハウスで取引されている(注8)。まさに現代の巨匠として,1920年代マチスとドランは最も高値をつける現存作家の地位にのぼりつめたのである。1920年代前半その穏健な様式によって,フランス絵画の伝統の継承者として認められたマチス,ドランが戦前,既成の絵画に反抗し,1920年代の様式とは全く異なった作品を世に送りだし,ひとびとの噺笑を買っていたという事実は,誰もが,恐らくは画家自身が忘れてしまっていた,もしくは忘れてしまいたかったことだ、った。1925年9月『ラール・ヴイヴァン』誌に掲載されたマチスへのインタビューは,第一次大戦後の美術批評におけるフォーヴイスムに対する長い沈黙が,この時点においても継続していたことを示す資料である。このインタビューにおいて,マチスは絵を書き始めた頃から時代を追って,ギュスターヴ・モローの教え,駆け出しのころ受けたさまざまな影響,とりわけセザンヌの影響,さらには1908年頃聞いたアカデミー・マチスのことなどを語っている。時代を追って話すなら,当然どこかで話題にのぼるはずのフォーヴの時代についてはしかし,このインタビューのなかでマチスはひとことも触れていないのである(注9)。

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