鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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Fhu ハU1920年代後半のフォーヴィスムの再生1920年代後半,マチス,ドランの作品が高値で取引された背景には,かれらの制作欲フォーヴイスムに対するこの長い沈黙を破る直接の契機となったのは,1927年4月ピング画廊で聞かれた展覧会「野獣たち,1904-1908年jだ、った(注10)。この第一次世界大戦後パリでは初めてのフォーヴイスムをテーマとした展覧会をきっかけとして,美術雑誌にはフォーヴイスムを回顧する記事が掲載されることになる。「フォーヴの展覧会が現在聞かれている。この展覧会は物見高い人々を数多く惹きつけ,たいへんな熱狂を引き起こしているJ(注11)0 rラール・ヴィヴァン』誌5月1日号の記事にみえるこうした報告から,フォーヴイスムの絵画が1920年代も終りに近づいた1927年,新たな関心をもって,公衆に歓迎されたことが伺われる。その背景には,展覧会に展示された,かつてのフォーヴの画家たちの不動の名声があったことは間違いない。「フォーヴの運動」と題された展覧会カタログの序文でワルドマー・ジョルジュは,Iフォーヴの芸術は,絵画における近代運動の起源であり,今日の大画家の大半に決定的作用を及ぼしたJ(注12)と書いている。フォーヴイスムを,同時代フランス絵画の起源とみなし,高く評価していこうとするジョルジュの姿勢は,のちのフォーヴイスム観にも受け継がれていくことになる。翌1928年に出版された書物『フランスにおける絵画のアンソロジー1906年から今日まで』においては,フォーヴイスムを起点として「今日の若い絵画jまでの歴史が編纂されているし,1929年に出版された2巻本『フランスの独立派絵画』においても「フランス近代絵画の発展において,1904 年から1909年の短い期間はもっとも果敢で,もっとも波i闘に富んだ、ときだ、ったjというように,いまや大画家となった作家たちの勇ましい時代として,フォーヴイスムは称賛されている。その一方で,フォーヴ期の絵画が新たな関心を生んだ理由を,1秩序への回帰J後のマチスやドランの制作の行き詰まりに求めることも可能かもしれない。実をいえばが衰えコレクターが新作油絵を入手する機会が減ったことも関係していた。1920年代後半,マチスのおもな関心は彫刻,版画,デッサンに移り,油彩は寡作になった。しかも戦時中を除き,1909年以降マチスが唯一契約を結んでいた画廊のベルネイム・ジユヌとの契約は1926年以降更新されなかった。ドランについていえば1927年にピエール・クルテイオンはこの画家を批判して書いている。「ドランについては筆をとりたくなかった。この画家は実に危険な安易さに身をまかせており,彼の近作にはあまり

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