鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
521/716

にも公然たる自己放棄がある。目下ドランはもはや存在しない。かれは死んだふりをしているJ(注13)。1927年の展覧会は長い間忘れ去られていたフォーヴイスムをひとまず忘却の淵から引き上げた。当時の批評によれば1927年の展覧会においてはヴラマンクにもっともよい位置が与えられていた一方,マチスのフォーヴ期のよい作品はほとんどが戦前フランス国外に流出していたため,この画家はこのとき十分に提示されなかった(注14)。また1927年当時,フォーヴの展覧会は大いにひとびとの関心を引きつけたとはいえ,展覧会の反響として出版されたフォーヴイスムの記事は,たとえばI(おじいさん風に)1907年から08年のことをお話ししましょうjといったサルモンの「フォーヴとフォーヴイスム」のように,当時の証人による回想の域にとどまっていた。そうしたなかカタログ掲載のワルドマー・ジョルジュの記事(rラール・ヴイヴァン』誌3月15日号初出)は,歴史的にフォーヴイスムを位置づけようとする意図が濃く,フォーヴイスムを「運動JI流派(エコール)Jということばを用いて説明している。とはいえこの記事では,マチスの〈ダンス1}(1909年,ニューヨーク近代美術館)がI{生きる喜び}(1903) Jというタイトルのもと挿絵に使われており,長いこと忘れ去られていた20年も前のフォーヴイスムの回顧が,そう簡単で、は無かったことが伺われる。先駆的フォーヴイスム研究の登場かくしてフォーヴィスムの本格的な回顧の名に値するのは,1929年から『カイエ・ダールJに5回にわたって掲載された,ジョルジユ・デュテュイの「フォーヴイスムJだということになる。「フォーヴイスム生誕25周年を記念して,同時代絵画の新時代の始まりを告げた運動の全体像を与える」ことを目的として書かれたこの記事は,フォーヴイスムの画家として「もっとも資格のあるjフリエス,マルケ,ヴラマンク,ブラック,ドラン,マチスの当時の回想に基づいて論が展開されており,さらにはマチスのフォーヴ期の重要なコレクター,マイケル・スタインや,フォーヴ期のドラン,ヴラマンクの作品を擁するヴォラールの協力を得て,1920年代末当時ほとんど公衆の目に触れる機会のなかった,フォーヴイスムの作品を挿絵で数多く紹介した。マチスの娘婿デユテュイによって書かれたこの記事は,ワルドマー・ジョルジ、ユの「フォーヴの運動」にみられたようなフランス絵画の文脈にフォーヴイスムを置くものではなかったし,フォーヴイスムの通史編纂を目的とするものでもなかった。フォーヴの画家

元のページ  ../index.html#521

このブックを見る