鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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目)。たちの回想、を中心にして書かれたこの論文は,1929年に3回にわけで発表され,1930 年に第4回,翌31年には最終回が現れている。レミ・ラブリュスの指摘によれば,マチスはデュテュイの記事に注意を払っていた(注15)0 iわたしはフォーヴイスムの起源にてんで関心がなかったし,考えてみたこともなかった。しかしドランがフォーヴイスムについて語ったことは,わたしにフォーヴイスムを思い出させた。われわれが新たな欲求によって制作していたとき,フリエスとデュフィは依然としてボナの弟子だ、った。(中略)大声で叫ぼうというのではないが,本当にわたしが最初だったのだj(注16)01929年7月27日,娘マルグリットにマチスが宛てたこの手紙から,デュテュイの記事に触発されて,マチスは自らがフォーヴイスムの主導者であったとの意識に「目覚めたjことがわかる。連載の後半,第4回と第5回では,もっぱらマチスの発言が引用され,明らかにマチス偏向が認められるがそのことは,筆者がマチスを高く評価していたことはもちろんであるが,デュテュイとマチスが親しい間柄であったことと無縁ではなかったかもしれない。とはいえ,デユテュイの論文が初めてのフォーヴイスムの本格的な研究であったことに変わりはなく,そこに引用されている画家たちの証言は,現在でもフォーヴイスムの貴重な記録である。フォーヴイスムの主導者であった自覚に目覚めたマチスは,1929年以降さまざまな場でフォーヴイスムに積極的に言及するようになる。1927年のピング画廊での展覧会をうけて,i新たなフォーヴイスムの必要J(注17)を唱えていた批評家,テリアードによる1929年のインタピューでは,i今日から判断された『フォーヴ』の運動はあなたにはどんな風に見えますかjという質問にマチスは「即答できなかったJものの,新印象主義の時代から,フォーヴイスムに至った足跡、を詳しく語っているのである(注おわりに以上本稿では1920年代後半の,フランスにおけるフォーヴイスムをめぐる言説に概観を加えた。第一次世界大戦後「秩序への回帰jの動きのなかで,忘却されてしまったフォーヴイスムは,1920年代後半になって新鮮な驚きを伴ってひとびとの記憶に魁り,そしてフォーヴイスムの当事者であったマチス自身にも,あらたな自覚をよびさます。1930年代初頭にはこの画家は戦前の代表作のひとつ〈ダンス〉をモチーフに,米国の大コレクター,パーンズ博士の注文をうけて壁画〈ダンス〉を制作し,1920年

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