注代の倦怠から大きく足を踏み出すのである。1920年代後半の忘却の淵から救い出されたフォーヴイスムが生んだ最大の帰結とは,おそらくマチスの若返りであり,1930年代半ばのこの画家の作品にフォーヴイスムは匙ることになる(注19)。る「エコール・ド・パリjはフランス画家と外国人画家を区別する用語として使われてはいない。ここにおける「エコール・ド・パリjはフランスの同時代絵画全般を指す言葉である。(2) 拙稿「マチスとフォーヴイスム-1930年代のフランスにおける文脈Jr日仏美術学会年報』第19号,1999年,45-70頁。(3) Georges Duthuit,“Le Fauvisme", Cahiers d' art, n 0 5, 1929, p. 186. (4) 1912年キュピスムの批評家,アンドレ・サルモンは,フォーヴイスム以後の同時代絵画について書かれた最初期の著作にあたる『若いフランス絵画』のなかで,マチス,ドランについて次のように書いている。まずマチスについて。「フランスのサロンでは,モスクワやスカンジナピアのマチス流がどんどん減っている。(中略)この画家はいずれにせよ,(偉大な詩人が純粋な詩人では決してないのと同じで)大画家にかなり似たひとかどの人物であるが,今後は孤独である」。またドランについては「長ヲlく隠遁」を心配している。AndreSalmon, La jeune peinture (5) 天野知香11910年代末から1920年代前半のフランスにおける批評の文脈とマチスの芸術Jr鹿島美術研究j(年報第14号別冊),1997年,鹿島美術財団,47-67頁を(6) Marcel Sembat, Matisse et son auvre, N.R.F., 1920. Reprint in Maurice de (7) Romy Golan, Moderniη& Nostalgia, Art and politics in France between the wars, (8) 当時最も熱心なマチスのコレクターのひとりだ、った福島繁太郎は1928年パリの競売で(LaRobe jaune)を23万フランで落札している。AlfredBarr, Jr., Matisse: Louis Vauxcelles, Le Fauvisme, les Bditions Olbia, 1999, p.25.この文脈におけfrancaise, Paris, Albert Massein, 1912, p.20. 参照。Vlaminck par Francis Carco, Paris, Mercure de Franc巴,1999, pp.85-96. London and New Haven : Yale University Press, 1995, p. 5. ( 1 ) Louis Vauxcelles, Le F auvisme , Gen色ve,Editions Pierr巴Cailler,1958. Reprint in
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