鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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~520 え,変化していく姿を認めることができるであろうか。ここで,マルタと彼女との違いを考慮しておく必要があるかもしれない。自分の主張に自信を持つマルタにとってイエスの言葉は思いがけないものであったろう。彼女の攻撃的な言葉は矛先を失い,自らを省みるきっかけとなったのである。一方,I姦淫の女」は,ファリサイ派の人々や律法学者たちによって魯められる。イエスの言葉は,彼らに対して発せられたものである。彼らは,舌を巻いて逃げ出すほかはなかった。改めるべきは彼らなのである。しかし,ここにおいて,I姦淫の女jは許されるだけの存在なのであろうか。罰せられなかったのをよしとし,ただその場を立ち去るのであろうか。〈マルタとマリアの家のキリスト〉で示されたマルタの「その後」のようなもの,彼女の「その後」に注意は払われないので、あろうか。さて,ここで我々は,前景の風俗場面を検討しなければならない。前景には4人が表されている。なかでも目を引くのは,最前列の二人の男女で,それぞれ鳥や野菜を商っている。男は烏を掴んで女に差し出すように表されている。烏(vogel)という語が性交を意味する俗語であったことに加えて,そうした意味で用いられたいくつかの版画等との類推から,この二人の関係を示していると解釈された(注9)。さらに彼女に背後から差し出された玉葱は,その後の苦い涙を暗示しているという。モティーフそれぞれにそうした意味を読みとることは,確かに可能かもしれない。しかし,彼らはどこか少し不自然である。男は鳥を差し出すにしては,腕を伸ばしきっていないし,視線も女の方を向いていない。女も男に微笑むでもなく,玉葱を見るでもなく,宙を仰いでいる。そもそも二人の聞には距離があり離れている。男女がそうした関係にあることを示すような例は少なくない。しばしば,男は女の身体に触れ様々にアプローチしている。しかし,女たちは必ずしも常に,その誘いに応じ身を委せているわけではない。たとえばアールツェンの周辺の画家による〈糸を紡ぐ女と三人の求愛者},家事と勤勉の象徴であるつむや糸巻き棒を手に握り,誘惑を斥け正しい道を進む様子が示される(注10)(図7J。〈キリストと姦淫の女〉の前景で,野菜を商う女性は,ちょうどこの糸を紡ぐ女性と同じように,襟の詰まった黒っぽい服に前掛けをし,髪をまとめた質素ななりで,画面の同じような位置におさまっている。彼女は,右手をキャベツに置き,左手は握っている。前には果実や葡萄,パンのはいった龍が大きく表されている。ここに示され

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