鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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2.アールツェン以降の〈キリストと姦淫の女〉るのは罪を腫うキリストであり,彼女のすぐ近くに位置するよう表されている。そうして,仰ぎ見るその視線は,彼女の心の内にあるものは,男性との関係ではなく,イエスの言葉「行きなさい。私もあなたを罪に定めない。これからは罪を犯さないように。」であり,正しい方向を見つめていることを伝えている。彼女は玉葱によって示される苦い涙を恐れてではなく,イエスの教えと許しによって,悔い改めているのである。後景の「姦淫の女Jは,ちょうどイエスを通ってこの女へたどり着くように3人が並べられている。彼女こそ,I姦淫の女」のその後の姿と見ることができょう。もちろん,それは同時に,この説話に学んだ者すべての悔い改めた姿とみなすことができるであろう。以上のように見てくると,この〈キリストと姦淫の女〉は後景と前景をたくみに組み合わせることで,主題の出来事としての場面と,その女主人公における内面の変化ないし,主題に学んだ信徒たちの姿を表そうとしていると考えることができるのである。アールツェンはその後「聖俗逆転j構図の作品を制作しなかったようである。の女」は,どのように扱われているであろうか。ブクラールは「マルタとマリアの家のキリストJをしばしばとり上げている。ブクラールによるそれらは,アールツェンの作品に較べると,後景はますます後方へ退いて,前景の部分がより大きくなり,静物が丁寧に描き込まれるという特徴を有する(注11)。さらに60年代末からそうした構図を用いて〈四大〉の連作にし(注12),その新しい可能性を示している〔図8)。それらは,逆転の構図の応用といった次元にとどまらず,大画面を充分に活用した迫力ある風俗描写と独特の広がりをもっ画面構成によって非常に優れた作品となっている。ここにおいて表されるのは,Iエジプトへの逃避(施しを与える聖母子)J (土),I神秘の漁りJ(水),Iマルタとマリアの家のキリストJ(火)であるが,(気)だけは宗教主題を欠いている。画面には,鳥を商う人々が表されており,アールツェンによる〈キリストと姦淫の女〉の前景表現と似通っているが,後景には,市場の光景が続くだけである。この一点だけ,なぜ,宗教主題が選ばれなかったのか,明らかにされていな1660年代半ば以降,それはブクラールによって受け継がれていく。「キリストと姦淫-521-

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