鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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い。アールツェンの作品から類推するならば,Iキリストと姦淫の女jが有力な候補のひとつであろう。しかし,それをここに表した場合,後景と前景のつながりは,他の3点のように必ずしも明白ではないのではあるまいか。「神秘の漁りjと「水」の関係や「マルタとマリアの家ーもてなしの用意」と「火」の関係は明白であるし,I主の施しjと「地」もその恵みという点で共通する。そもそも,I逃避jは「地」上での移動である。しかし,Iキリストと姦淫の女jという主題と「気jの結びつきは,それらに較べて強くはない。神殿という場所も,姦淫という主題も「気jに直接は結びつかない。鳥(vogel)という語のもう一つの意味を介在させなければ,両者はつながらない。そうしたことが,ここに宗教主題が表されなかったことに関係しているのかもしれない。アールツェンの作品は,版画の原画にも採用された。ヤーコプ・マタムは1603年,アールツェンの「聖俗逆転の」作品を何点かまとめて版画化するにあたって,フランクフルトとストックホルムの〈キリストと姦淫の女〉の2作品についてはその前景だけを採用し,後景は別の主題(1葡萄園の農夫のたとえJI農家の前の若い青年J)に変えて作品化している(注13)。特に「葡萄園の農夫のたとえjと組み合わされたそれは〔図9J,ラテン語の長い銘文を有し,I誰しも,勤勉によらなければ栄光を手に入れることは出来ないjと,怠惰を戒め勤労を勧める内容を伝えており,全体の意味も新しく作り変えられている。また,1農家の前の若い青年」はストックホルムの作品の前景を,一部改変して採用している。後景には,地面にへたりこむように座り,天を仰ぎ見る若者が表されるが,それとの対比によって,前景の鳥や野菜を商う男女は,豊富な食物を前に立ち働く恵みにみちた人々として表されているように感じられる。このように,Iキリストと姦淫の女Jは次々と姿を消しているように思われる。同主題がアールツェンの後継者たちによって取り上げられることはほとんどなく,また,アールツェンに基づく版画においても,それは必ずしも採用されていかない。こうした現象は,Iマルタとマリアの家のキリスト」主題がアールツェン以降もくり返し後継者や版画家たちによって取り上げられるのに対し,奇妙な対照をなしている。3.銅版画に表された「キリストと姦淫の女」しかし,より広く目を転ずるならば「キリストと姦淫の女」という主題は,ネーデルラントにおいて忘れ去られていたわけで、はないことに気づく。それは油彩画ではな522-

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