。市小口==五士目円Hのは15人ほどで,聖母やアンナ,エリサベツ,サマリアの女,姦淫の女,身体の曲がった女,そしてマルタやマグダラのマリアらである。すなわち,聖母と聖母の親族,イエスに従った女弟子的な女性たち,病やその他の禍いを癒された女性たちである(注20)。それぞれは,各人物を前景に大きく全身像で表し,後景に聖者の場面が小さく加えられている。いずれも,ラテン語の銘文が付され,解説が加えられている。しかし,聖書の抜粋というより,要約され時には加筆されている。たとえば,I姦淫の女」では,I意地の悪い者たちによって,姦淫の女は主のところへ引き立てられたが,彼女は放免され,主の御力を知った」という文が付されている。ここでは,焦点は女に移され主に出会い主を知った者として描出される。女性たちが出会いどのように学んだかが,簡潔に述べられるのである。16世紀ネーデルラントの版画において「キリストと姦淫の女jという主題は,二つの側面を示している。キリストによる罪の許しという観点から,励むべき善行のひとつとして取り上げられていく一方,主を知った女の物語として,聖書のなかの他の幾人かの女性たちとともに手本とすべき例として取り上げられていたのである。以上を通じて,アールツェンによるストックホルムの〈キリストと姦淫の女〉においては,前景の女性が「姦淫の女jのその後を表していると考えられるのではないかという解釈を示した。またアールツェン以降は,弟子たちによる作品,アールツェンにもとづくとされる版画作品にその主題の作品がほとんど見られないことを確認した。しかし,一方で多くの版画作品で,同主題は,キリストによる許し,罪人の許しとして励むべき善行の手本として取り上げられている。また,聖書の中の女性たちという切り口で,学ぶべき手本として取り上げられていくのである。これらの聖書の女性たちの連作がいくつか出版される過程で,その数を増していった新約聖書から取り上げられた女性たちの多くは,旧約聖書から選ばれた勇ましく賢い女性たちにくらべて,弱き者小さき者,名もなき者たちである。「姦淫の女jは,まさにそのひとりであり,主に会い,許され,知ったと讃えられる。アールツェンはストックホルムの〈キリストと姦淫の女〉において,女の視線や姿を工夫することによって,まさに,弱き者小さき者である女が,主に出会い許され愛にみたされる一瞬を,また前景の女性によって,彼女が罪から離れる様子を描出した-524-
元のページ ../index.html#534