鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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u古画備考』所収)にも,I御本丸雁之聞芙蓉之間筆耕拍雁之間狩野左衛門休白(中点、含まれている。狩野晴川院の『公用日記.1(東京国立博物館)および『狩野家記録』(国立国会図書館)(注7),W古画備考J所収の「新営大城画壁筆者人名jの記事から御徒士町狩野家の江戸城障壁画制作への参加が確認できる。以下それらの記録を補足する絵画資料を提出したい。-番号A-33I雁図内第百二拾二号J(留書「御本丸雁之間休白昌信筆天保十二丑年長月中旬地取J)は,W狩野家記録J天保十五年六月七日の条の,「御本丸御座敷向御絵様井筆者付一,御休息狩野伊川院(中略)一,雁之間御絵様苅田二雁一,芙蓉之間御絵様芙蓉二小鳥にある「苅田二雁jにあたる。おそらく御徒士町狩野家の絵師が何らかの御用で図様を地取り(実寸の模本の意か)したものと思われる。また「新営大城画壁筆者人名」略)寛文三年卯六月御入用請」の記事がある。-番号B-1 I西丸杉戸衝立掛物伺下絵J(袋裏「明治十三年五月下旬政之永信J)『狩野家記録』天保十五年八月廿四日の条に「表御扉風銘々請持」として,王国壱之間とある。玉円永信による「西丸杉戸衝立掛物伺下絵」の内ー図が「蘇鉄竹白椿」の衝立の下絵であり,これにあたるものかと思われる〔図1)。-香号B-3 I御本丸奥雪柳之間同連歌之間伺下絵J(袋裏「明治十三年五月下旬政之永信応信J)[図2) -番号B-5I江戸城小下絵J(留書等なし)以上の資料は,W公用日記』等に関連する箇所がみあたらない。(W公用日記』天保十五年七月十一日の条によれば本丸柳之聞は狩野真笑,連歌之聞は住吉内記が担当している。)-番号B-7I御本丸芙蓉之間御下絵西丸芙蓉之間御下絵永信J[図3)・番号B-8I西丸焼火之間御本丸菊之間永信J[図4) 西之丸が焼失した天保九年四月二十五日の条には,「一,西丸御殿向御焼失ニ付,御座敷御張付等之絵奉願度旨,此程御絵師中内談も承り候所,此度之儀,定式願来り候御用筋とも相違公儀之大事之度ニ候間,あらそひ願八枚折ー,壱双花鳥狩野晴川院狩野休伯当時家筋狩野玉園狩野休園当時家筋狩野休清(後略)Jー,御衝立壱間一脚蘇鉄竹白椿-532-

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