鹿島美術研究 年報第18号別冊(2001)
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絵J(B-5 )は天保十五年焼失,弘化二年造営の江戸城本丸障壁画下絵と考えられ同天保十五年七月十一日の条には,「御本丸御普請ニ付,溜之間狩野探淵竹之御廊下探淵伴狩野探原(中略)雁之間間狩野休清桔梗間真笑伴狩野春笑右之通可被認候事」とあり,本丸芙蓉之聞は休円応信の担当と確認できる。ゆえに「御本丸芙蓉之間御下る。嘉永三年の西之丸焼失については,I新営大城画壁筆者人名J(r古画備考』所収)に,「嘉永五年壬子五月廿二日,西丸炎上ニ付同七月御殿絵事被仰付候,絵師交名(中略)一芙蓉之間四日,以竹本伊豆守本一校了jと記録され,I西丸焼火之間」下絵(B-8) I西丸芙蓉之間御下絵J(B-7 )は,この御用のものと思われる。-番号B-15I竹之間下絵J『公用日記』等によれば,竹之聞については御徒士町狩野家の絵師に該当する箇所はみられない。(r狩野家記録』天保十五年七月十一日の条では,竹之聞は板谷桂舟が担当した。)-番号C-lll西丸御座之間御衝立七福神図J(留書「休伯長信筆休碩友信極天保六年間七月廿二日玉円永信写J)(図5J 『公用日記』天保九年十一月九日の条に,「天晴,父子御用引,西丸御座間御衝立,七福神,以前狩野休伯法眼筆也,此度晴雪認候ニイ寸,御寸法相知レ兼候由ニ付,休白先年御繕相勤候ニ付,相尋ニ文通遣候処,高サ四尺九す,横六尺壱す,右之通申来ル」の記事がある。「休白先年御繕相勤候ニ付」とあるのは,留書の天保六年を指すのだろうか。本図は戦前,結城素明著『古休伯長信の研究.](1934年)に掲載されたものである。同著には,I狩野休伯江/狩野休伯福神御衝建御絵御手入御用,可相勤候jという御徒士町狩野家に伝わる文書も引用されている。また結城著作には重次氏所蔵の『玉燕・玉栄由緒書.1r口宣案Jなどが収録されている。これらは結城氏が『古画備考.](東京芸術大学)の校訂に携わった折に重ー焼火之間同玉円(中略)七月廿三日被仰渡弘化二年正月念狩野曇川芙蓉間西丸御座問弁御小座敷,其外御修復ニ付,七狩野勝川波之間狩野玉園(中略)焼火川院J-534-

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