画J(C-13)のうち「芸姑図jは,陰影表現,対象の把握など狩野派の正統的な技法と本質的に異なる西洋絵画の方法で描かれたものである〔図9J。玉泉応信は,狩野派の画共進会に「観音図JI花鳥図」を出品し銅賞を,十七年第2囲内国絵画共進会に「人物図JI花鳥図」を出品し褒賞をえた(注9)。また明治十六年竜池会の第一回パリ日本美術縦覧会にも「竹に小禽図」を出品している。御徒士町狩野家最後の絵師玉泉応信は,幕末から明治維新という終罵期の狩野派の様相を伝える画家であるといえる。内国絵画共進会は,明治政府農商務省博覧会掛によって開催され,同会は伝統絵画を保護し復興することを目的としたものであったため,展覧会は狩野派等の伝統的技法画題の作品を出陳して開催された。本資料の「応信草稿J(D-25)の数葉の下絵〔図7Jは第二回内国絵画共進会で銅賞をえた「観音図jの下絵であることが,I第二回内国絵画共進会画集」の木版本で確認できる(注10)。また「探幽縮図」の色刷木版『緊珍聞譜.1(明治18年,博文館)は,玉泉応信が版行した。彼が維新後の日本絵画の衰退のなか,その復興に尽くしたことがわかる。玉泉応信は,明治三年兵部省に出仕している。本資料中,玉泉応信が海軍兵部省人事課宛に宛てた委任状が,I草稿J(D-29)の袋裏に使用されている〔図8J。狩野派の絵師は明治維新後,製図や図案,測量といった絵画の基礎技術を活かす仕事を得て新政府に吸収された(注11)。玉泉応信もそのひとりといえる。また本資料に含まれる数葉の下絵類のなかには,船舶の写生図なども含まれており,当時の狩野派の絵師達が新たな時代に対応、し西洋絵画の技法などを習得していった様相を示している。「雑伝統を守ることを使命としながらも新しい時代に対応していったのであろう。本資料は,先に述べたように,玉泉応信が御徒士町狩野家伝来の粉本類を改装したもので,狩野派終罵の時期の様相を制度面からではなく絵師個人のレベルから物語っている点でも特徴的な資料といえるだろう。ひとつの絵画伝統の終需を問うことは同時に,次世代の絵画の可能性を問うことでもあろう。本資料が狩野派の終鳶の姿に灰かな光をあてるものであるとすれば,同時にその光は次の絵画の系譜をも照らしているのではないだろうか。本資料はまた,大村西崖や結城素明が編纂した諸資料,すなわち日本の美術史の出発点に存在していた(今は失われた)粉本,文書類の一端であったことが確認された。本稿は江戸城障壁画や柳営関連のものを中心に報告したが,今後,留書の判読や各資料の分類を行うことを課題としている。536
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